スペインツアー(Madrid,Toledo,Cordoba, Granada,Malaga,Barcelona)

第六日(
7.22.Thu.)「バルセロナ」


 午前 午前六時四十五分にロビーに集合し、そのままマラガ空港へ。午前八時発のバルセロナ行きに搭乗。ぼんやりとしているうちに午前九時半頃にはバルセロナへ到着。
  (マラガ空港)  
  バルセロナは人口150万人の、首都マドリードとほぼ肩を並べるほどの規模の大きい都市。巨大客船が出入りするヨーロッパ随一の港町でもあります。都市としての歴史はマドリードよりも古く、「我々はカタラン人でありスペイン人ではない」と言い切るほど民族意識の強い土地柄。
  午前十時半、最初に訪れたのはピカソ美術館。今回の旅行は国立ソフィア王妃芸術センターの「ゲルニカ」、昨日のマラガのピカソ美術館、そしてバルセロナのピカソ美術館とピカソづくしであります。どちらかというとダリの方が個人的には好きなのですけど。ここバルセロナの美術館は、「ピカソ以前のピカソに会える」というのがうたい文句。確かに代表作の「アヴィニヨンの娘たち」はニューヨークにあるし、有名になった後の作品はほとんどがアメリカかフランスにあったように思います。このバルセロナは、ピカソが14歳から20歳前後まで住んでおり、展示作品も学生の頃の習作が中心となっています。もっともこの美術館の立ち上げには、ピカソの秘書サバルテスが尽力し、企画立ち上げから五年後に彼が死去したためにピカソが特別 に協力したという話もあるらしい。元々はアギラールという貴族の屋敷を改築したものです。
 第一の部屋は9歳から14歳頃の作品。14歳の頃に描いた祖父の肖像画で、既に基本的な技法はマスターしていたことが分かります。第三の部屋には15歳の頃に描かれた母親の肖像画。第五の部屋には14歳から16歳頃までの人物画の習作があり、学校の課題作品ということもあって正確な制作年は分からない。
 いよいよ次の部屋には15歳の頃に描かれた最初の大作「聖体拝領」が。画集などでおなじみの、いかにピカソが早熟の天才で、この頃に絵画技法を完璧にマスターしていたかを示すのに紹介される作品。実際に目にすると、思ったより細部は荒っぽく描かれていますが、予想以上に迫力のある画面 。自ら洗礼を受ける妹のローラを描いていますが、ここに早く病死した妹コンチータの姿を重ねていると言われています。 次の広い部屋には、入り口近くにマドリードで制作されたというベラスケス「フェリペ四世の肖像」の模写 があり、その奥に16歳の時の大作「科学と恩寵」があります。コンクール出品のために大きなキャンパスで制作されましたが、七枚の下絵が残されていて、マドリードコンクールで名誉賞、マラガコンクールで金賞をそれぞれ受賞しているそうです。ベッドの部分は一点透視法で描かれ、斜めから進みながら見るとベッドの部分が引き延ばされるような印象を与えるのだそうで、既に単なる基本技法を超え、さらなる高等なテクニックを習得していたことが伺われます。
 次の部屋には18~19歳の頃の作品があります。「4CATS」は、アーティストのたまり場だったビアホールのメニューをピカソが描いたもの。初の個展もこのビアホール「4CATS」で行われたそうです。第十の部屋には、19~20歳頃の、パリとの間を往復していた頃の作品が。ロートレック風の人物画や、セザンヌ風の静物画が並び、自己のスタイルをあれこれと模索していたことが分かります。この頃から、サインは単に「ピカソ」とのみ記されるようになります。  第十一の部屋には、20才の頃の「青の時代」の作品が。女囚人の絵は、わざわざ刑務所まで出向いて行って描いたとか。「バラ色の時代」の絵も一枚だけ展示されていました。27歳の頃の、「アヴィニヨンの娘たち」と同時期のキュビズム初期の作品もあって、かなりサイズは小さいのですが、色合いは「アヴィニヨン」とほとんど同じ。
  最後に「ラス・メニーナス」の部屋に。ピカソは晩年、76歳の頃に、ベラスケスの大作「ラス・メニーナス」を主題にした連作を制作しました。部屋の中央にある最も大きいモノクロの作品では、ベラスケス自身の姿は巨大化し、閉め切られた窓は開け放たれ光が差し込んでおり、人物は例によってさまざまな形に変形しています。全体としての色調は「ゲルニカ」を思わせますが、「ゲルニカ」ほどの迫力はなく、どこかユーモラスな印象。  
 午前十一時半にピカソ美術館を出て、バスで移動、ガウディのグエル公園へ。途中、バスの中からバトリョ邸(骸骨を思わせる窓枠が特徴的)、カサ・ミラなどを確認。写 真で見ると実に個性的で風変わりに思えるのですが、実際に街中にあるのを眺めるとさほど違和感はありません。 午前十二時十五分、グエル公園に到着。15haほどのスペースで、回ってみるとさほど広くはありません。入り口近くにガウディ博物館がありますが、これは実際にガウデイが寝泊まりしていたところだそうです。鉄の扉と塔の先端はガウディ自身の作。公園のベンチは外側から見ると壁のところに穴があいていますが、ベンチにたまった雨水が外へ抜けるようになっているのだとか。ベンチから下を見下ろすと二つのユーモラスなお菓子の家がありますが、右側が運営事務所、左側が管理人住居だったそうです。ぶらぶらと回ってみるがあまりの暑さに少々バテ気味。  
   (グエル公園)  
  午前十二時五十五分に公園を離れ、サグラダ・ファミリアへ。120年前から工事が続けられているが、最初はビジャールが手掛けたものの一年で辞任、若干31歳のガウディが後を任されました。12使徒を表す12本の塔、中央にそびえるイエスの塔、その背後に建つ聖母の塔、福音書を表す4本の塔の合計18本の塔からなる教会は、ガウディの生前に四本、現在のところ八本までが仕上がるにとどまり、まだメインとなる塔が十本残っています。従って完成は後百年、二百年と待たなくてはならないと言われますが、現段階では完成目標を2022年に設定しているそうです。八年前から建築法が変わり、従来の石をひたすら積み上げていく方式から、鉄筋コンクリートを活用した現代建築の技法を駆使して完成を急がせているとのことです。
  この建築資金はどこから来るのかしらと疑問に思っていたのですが、ガイドの方に言わせると信者の寄付金、そして観覧料からまかなっているとのこと。ある意味慢性的な資金難にあり、どこかの金持ちがポンと百億円でも二百億円でも出せばすぐにでも完成するかも知れない、と言われました。それこそピカソの作品一枚分の値段……。    
  (サグラダ・ファミリア、生誕のファサードの下で)  
 サグラダ・ファミリアの近くのレストラン「エルス・ポルショス」で昼食。ここはもし教会が完成すれば立ち退かなくてはならないほど近くにあります。当初は百年かかるといわれていた工事が2022年には完成するとなると、少々困ったことになりそう。
 最初に大皿にサラダが並べてあり、パンがニンニクとトマト丸ごとと一緒に出されます。それぞれ半切りにしてパンになすりつけて食べます。メインは米の代わりに短く切ったパスタを使ったファデワ・ア・パンダという料理。アイオリソース(ニンニクマヨネーズ)をかけて。グラスの白ワインを別 に注文、デザートはクレマカタラナ(クレマブリュレ)
  (ファデワ) (クレマカタラナ)
 ホテルに戻る途中でお店に立ち寄り、「ゲルニカ」のポスターとバルセロナガイドブックを購入。
 四時頃ホテル・デルビーに到着。部屋に入ってみると備え付けのはずのセイフティ・ボックスがない。それどころか肝心のベッドが見当たらない。どうやら隣の部屋とくっ付いた別 仕様の部屋だったらしく、結局部屋を替えてもらいました
  午後八時、ロビーに集合してポルト・オリンピエにある「タライヤ」という創作料理系のレストランへ。バスの中で説明されたメニューは以下の通 り。
  「カバ」 「スフレのご飯カレー味」 「ポテトのスパゲティ」 「マグロの串焼き」 「カボチャのクリームスープ」 「ニシンのホワイトリゾット」 「鴨のフレッシュパスタ添え」 「カシスソースのチョコレートケーキ」
 えらく数があるなと思いきや、最初の三皿は一口サイズの前菜。スフレはどちらかというとお米のスナックで、ポテトのスパゲティはひと口分がレンゲに載って出されました。メインはスープからで、アボガドとバルサミコ酢がアクセントに添えられていました。ホワイトリゾットは皿の回りにイカ墨ソースが飾られていて、混ぜるとイカ墨リゾットになるというユニークなもの。鴨はスタンダードな味付けでしたが、二色のパスタが下に敷かれているのがご愛嬌。白ワインも赤ワインも若いタイプでしたがなかなか美味しかったので、空瓶を貰おうとしたのですが結局捨てられてしまっていたらしく貰えずじまいでした。

 
(米のスナックカレー風味)      (ポテトのスパゲティ)

 (マグロとトマトの串焼き) (カボチャとアボガドのスープ)

 (イカ墨とニシンのリゾット)       (鴨のパスタ添え)

  (ティラミス)            (プティ・フール)  


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