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【映画】ミロシュ・フォアマン「宮廷画家ゴヤは見た」

 「カッコーの巣の上で」「アマデウス」の監督ミロシュ・フォアマンは、チェコで生まれ、両親をナチスの強制収容所で殺され、戦争孤児の寄宿舎で少年時代を過ごしたそうです。そう言われてみれば、確かに代表作の登場人物達は皆暗い影を背負っているように思われます。皆強烈な個性の持ち主で、他人を巻き込み振り回す一方、どこか孤独で、愛する者に愛されることなく、裏切られてもそのことに気付かない……。精神病院をテーマにした「カッコー」はともかく、モーツアルトを描いた「アマデウス」ですら、物語のエンディングは精神病患者達のひしめく病院……。人間同士の緊張感に満ちた駆け引きの後に訪れるものは、精神の崩壊しかないのでしょうか……。
 今回の作品も、最後は精神を病んだヒロインが、死体の手を握ったまま歩く中、子供たちがその周囲を跳ね回りながら歌う場面 で終わります。極めて残酷な物語でありながら、独特のユーモア感覚に溢れていて、思わずクスリと笑ってしまうのがフォアマン監督作品の一つの魅力なのですが、それだけに常に登場人物の死と狂気で締めくくられる物語は、常に強い印象を残すことになります。
 さて、アカデミー賞受賞作「アマデウス」は、オープニングがモーツァルトの十代(!)の頃の作品「交響曲第25番」で、エンディングは円熟期の作品「ピアノ協奏曲第20番」でした。奇声を発して周囲を困惑させる独特のモーツァルト像がそれでも自然に受け入れられたのは、監督自身の芸術に対する深い愛情あってのことで、ネビル・マリナー指揮の音楽も、劇中のオペラのシーンも素晴らしいものでした。今回は画家が主人公ということで、オープニングはゴヤのモノクロのグロテスクな版画集「戦争の惨禍」で、エンディングはカラフルではあるもののやはりグロテスクな油絵の作品群。あれだけ奇怪で絶望に満ちた作品を晩年に描いていたゴヤの最後の作品が、優しく微笑を浮かべた少女の肖像画「ボルドーのミルク売り娘」であったことは、内心非常に心温まるエピソードだと思っているわけですが、フォアマンがヒロイン役にナタリー・ポートマンを選んだのは、雑誌の表紙を飾った写 真がこの「ミルク売り娘」と印象が似ていたからだといいますから、やはり芸術作品を非常に大事に扱っているのだなあとあらためて感じ入った次第であります。
 物語は、ゴヤを主人公にというよりは、異端審問の神父とその犠牲となる少女の物語をゴヤが目撃する……というスタイルを取っています。冒頭でゴヤの版画集を養護するロレンソ神父は、その一方で魔女狩りの強化を画策、たまたま酒場で豚肉を食べなかった商人の娘イネスは、ユダヤ教徒の疑いをかけられ投獄される。神父と少女の両方の肖像画を描いていたゴヤは、娘を救いたいと願う商人と神父とを引きあわせるが、当然ながら両者は決裂……ロレンス神父の餌食となったイネスは神父の子を宿し、神父は逃亡の後フランス革命に乗じて検察官としてスペインに舞い戻ると、自らの過去を帳消しにしようとします。
 ロレンソ神父を演じるのは、「ノー・カントリー」で非常に個性的な暗殺者を演じたハビエル・バルデム。猫なで声の変節漢を最初から最後まで見事に役に徹していて、存在感抜群。「たとえ拷問を受けても、無実なら神の恩寵でそれに打ち勝つ力が与えられる」とうそぶいた直後に、天井から吊るし上げられてものの5分とたたないうちに根を上げて、自分は猿だという告白書にあっさりサインしてしまうシーンなどは、非常にリアルであるとと共にどこか滑稽で、「アマデウス」のブラックユーモアはここでも健在だと納得したりして。嫉妬や裏切りといった、人間の卑怯な側面 をある意味魅力にまで高めてしまうあたり、サリエリを演じたマーリー・F・エイブラハムと通 じるところもあるかも。
 その意味では今回の映画で、非常に個性的で挑発的な作品を残しながらも、スペインの激動の時代を見事に生き抜いたゴヤが、極めて常識的な傍観者として描かれていたのは少々物足りないかも。やはりあれだけ破天荒なモーツアルトを描いた「アマデウス」の監督なら……たとえ王妃でも不美人は不美人のまま描き、厳格なカトリックの国で「裸のマハ」を描き、戦争を批判する作品を出版する一方で革命前後の王室交替の時代を切り抜け、晩年には自宅のよりにもよって食堂に「我が子を食らうサトゥルヌス」を描いた画家を、よりエキセントリックに描いて欲しかったと思うのでした。当初の企画では、神父役のバルデムがゴヤを演じる予定だったそうで……そうだったのか! 見たかったなあバルデム演じるゴヤ! 同じスペイン人ということでまさにぴったりだったと思うのですが。


【映画】西谷弘「容疑者Xの献身」

 直木賞受賞、単行本は60万部(文庫本は映画効果で今や100万部を突破!)もの売り上げを記録した東野圭吾によるベストセラーの映画化です。単行本は「このミステリーが凄い!2005年版」で1位 となった時に買ってはいたものの本棚に並べっぱなしだったので、これを機会にと当日全体の3/4、謎解きの一歩手前まで読み進めてから映画を観たのでした。
 「ガリレオ」シリーズは、原作もTVドラマも半分程度目を通していて、ドラマでは原作には登場しない女性警察官をヒロインに設定し、推理のアイデアが浮かぶと思わず意味なく数式を書きなぐるというこれまた原作にはない場面 を付け加えていて、それが妙に意味なく印象的。幽体離脱や自然発火といった超常現象を物理学者が推理するという直球勝負のストーリーが中心で、結構派手な印象があったのですが、「容疑者X」はアパートの一室で起きた殺人を隣人が協力して隠蔽しようとする、実に非常に地味な物語。果 たしてこのストーリーで映画が持つのかしらと思ったほど。
 淡々とした物語展開では少々厳しいと制作陣が考えたのかどうか、映画版はいきなり船の沈没事件という大仕掛けな場面 から始まり、中盤では殆ど本編に関係ない雪山登山のシーンが挿入されていたりして、少々首をかしげるところもなきにしもあらずですが、TVドラマ版の意味なし数式描写 などはなく、比較的リアリティのあるトーンに押さえられています。
 今年のあたまに観た、同じく堤真一の主演する「魍魎の匣」の映画版は、原作を無視して勝手に余計なシーンを加え、あらぬ ことか物語の構造自体までねじ切ってしまっていてあまりに言語道断!の出来でした。それに比べると、この「容疑者X」は、原作の流れもセリフも殆ど変更せずに丁寧に作られていて、しかも上々の興業成績を上げていることが、逆に好感が持てます。「小説のそのままの映画化は不可能」などと開き直って好き勝手やらなくても、ある意味真っ当に作れば充分支持される……ということをある意味実証しているわけで、今後、この作品に触発されて、ミステリの映画化がより納得する形で続けられていくことを切に望む次第であります。正直言って、映画のラストを観た時は、このお涙頂戴的盛り上げはもしかして映画のオリジナルでは? と疑ったくらいなのですが、原作を読んでみてむしろ「そのまんま」だったことに逆に驚いたりして。その意味では東野圭吾作品のスタイルそのものが非常に映像化しやすい性格を持っているのかも。
 ちなみに、「ガリレオ」文庫本によれば、探偵役の湯川学のモデルは佐野史郎だったとか。そうだったのか! 見たかったなあ佐野史郎演じる探偵ガリレオ!


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