【映画】トッド・フィリップス監督「ジョーカー」
ティム・バートン監督「バットマン」で、ジャック・ニコルソンがジョーカーを怪演した時、まさにこれこそジョーカーの決定版と思ったものだが、その後クリストファー・ノーラン監督「ダークナイト」で、ヒース・レジャーが遺作としてジョーカーを演じた時は、まさかこんな変化球があったかと驚かされた。そして今回の、ホアキン・フェニックスが主演をつとめる「ジョーカー」。もはや敵役ではなく主役である。しかも興行成績第1位。悩める大富豪のブルース・ウエインにはもはや共感しにくいが、破天荒のジョーカーにはむしろ気持ちが重なることが多いということなのかも知れない。
ジャック・ニコルソンのジョーカーは、組織のナンバー・ツーであるジャック・ネーピアが、ボスに裏切られバットマンによって廃液に落とされ、皮膚の色を失うと共に正気も失い、ジョーカーへと変貌するという設定だった。ブルース・ウェインの両親を殺したのが実はジャックだったことが判明し、ジャックがいなければバットマンは生まれず、バットマンがいなければジョーカーは生まれなかったというわけで、ティム・バートン作品でのジョーカーとバットマンは、まさに表裏一体の運命を背負った二人の人物として描かれているのだ。従って善VS悪という構図よりも、社会の異端児となった二人の人間が、夜の街ゴッサムで戯れているような印象が強い。
一方ヒース・レジャーのジョーカーは、全く出生の分からない謎の人物として登場する。ヒース・レジャー自身はキューブリック「時計仕掛けのオレンジ」のマルコム・マクダウェルを参考にしたと言っているが、この作品では、ジョーカーはトラウマを抱えているような物言いを繰り返すものの、何故口が避け白塗りで現れるのかはっきりとした説明はなされない。親が切った、あるいは自ら切った、などと言い放ちながら、その内容は首尾一貫せず、トラウマそれ自体も自分の自由行動の言い訳にしかしていない。それだけにその存在はリアリティがあった。何を考えているか分からない破壊者は、今のご時世にはかなり現実味を帯びた存在だ。ジョーカーにとっては死さえも戯れの一つに過ぎないので、そうでなくても殺生を自らに禁じているブルース・ウェインは、復讐心を抱えながらも彼を殺して自由にしてやることができない。クリストファー・ノーラン作品でのジョーカーとバットマンは、境界線を越えられる者と踏みとどまる者として対立する。
さて、今回のホアキン・フェニックスのジョーカーは、バートン作品とノーラン作品のキャラクターの両方を兼ね備えた性格に設定されている。「心優しき男アーサーがジョーカーへと変貌する」とは映画宣伝のあおり文句だが、母親を介護し子供には変顔をしかけるものの、それほど「心優しい」ことをアピールする場面があるわけではない。街の不良少年達からプラカードを奪われ蹴り飛ばされる冒頭から、典型的ないじめられっ子の大人として登場している。認めてもらえないことからの復讐心という意味で、ジョーカーのトラウマははっきりしているし、トーマス&ブルースのウエイン家親子との因縁も描かれているので、「何を考えているか分からない」キャラクターではない。一方で、制御が利かなくなり、感情を爆発させ、自らの激情のままに突発的に殺戮を繰繰り返す後半は、この人物が「ダーク・ナイト」の匿名の犯罪者ジョーカーへとそのまま繋がっていくことを暗示している。
「天気の子」の主人公である帆高は、偶然拾ってしまった拳銃を発砲するものの、殺人は免れた。しかし「ジョーカー」のアーサーは、たまたま知人から渡された拳銃を絡んできた男達に発砲し、殺してしまう。帆高が殺人を免れたのも、アーサーが殺人を犯したのも、ある意味偶然には違いないが、そこで物語の流れも主人公の運命も大きく変わってしまう。「なるほど、やはり銃は規制して間違っても人が手にしないようにする方が世の中として正しいよね」と言ってしまえばそれまでかも知れないが、確かに、ナイフや弓矢ではこうはならなかったはずなのだ。ナイフや弓矢でも相手に致命傷を与えられるだろうが、それにはある程度の熟練を要するわけで、突発的に引き金を引くだけで事足りるという、拳銃という武器の殺傷力の高さと扱いの容易さが、ある意味象徴的なのだ。怒りと恐怖に襲われ、考える間もなく突発的に手にしたその時には、既に相手の命は消し去られ、その行為の容易さが故に、殺人の実感やそれに対する後悔よりも、うるさい相手を死体にしてやったことへの開放感と高揚感が先に来てしまうのである。
アーサーの殺人が、次第に手慣れたものになるにつれ、その行為はより生々しいものとなっていく。衝動的に拳銃の引き金を引くことから始まった殺人行為は、やがて無防備の相手に枕を押しつけて窒息されるものとなり、ついには鋏を相手の喉と顔に突き立てることになる。より殺人の実感を味わえる直接的な行為と移行するに従い、彼の他者への攻撃はあやふやでおどおどしたものから、迷いのない、どこかふっきれたようなものへと変わっていく。それと共に彼の「笑い」も、虐待の反動による発作的なものから、他者を嘲笑い自らを鼓舞する意識的な笑いへと変貌していくのだ。
自らを開放したアーサーことジョーカーが街へ出ると、街にはテロリズムが溢れ、ジョーカーの仮面を被った暴徒達が破壊活動を繰り返していた。殺人を披露したジョーカーはむしろ英雄視され、ジョーカーは自らが異端者ではなく代弁者であることを実感する。映画の舞台は1980年代の架空の街ゴッサム・シティだが、今年に入って起こった香港での抗議活動やアメリカのウォルマートでの銃乱射事件も想起される。周囲から孤立し身の置き場を見つけられなかったアーサーと違って、今やジョーカーにとっては、居場所を見つけることは既にそれほど困難なことではなくなっているようである。
【映画】新海誠監督「天気の子」
異常気象で雨が降り続ける東京で、島を飛び出してきた高校生の森嶋帆高は、一時的に晴天をもたらす能力を持つ天野陽菜と出会います。天空との繋がりを持つ陽菜は、人柱として天空世界へと取り込まれ、帆高は彼女を取り戻そうと動き出すのですが、彼女が地上に戻ることは、そのままこれから東京に雨が降り続けることを意味していました……。 少年と少女が出会い、そこに共鳴が生まれ、少女は消え去る運命にあり、少年は少女を取り戻すために無謀な賭けに出る……。2016年のヒット作「君の名は」と似た構造を持つ物語なのですが、新海監督曰く、「調和を取り戻せない世界で、新しい何かを生み出す物語」を描きたいと考えたそうです。すなわち、「君の名は」では、全てが調和を取り戻し、皆が望ましい形の世界へと収束するのに対し、「天気の子」では、そうはならないということのようで……。
「君の名は」の感想では、「このどこかはっきりした結論の下されない、曖昧な、それでいてゆるぎない、確信に満ちたハッピーエンドに、作者の優しい眼差しを感じるのです」と書きました。今回の作品でも、その点はおそらく変わりません。前作と共通しているのは、やはり「作者の優しい眼差し」なのだと思います。一方で、これはまさに、「全ての調和が取り戻される」物語ではなく、「予定調和を拒絶し、大多数と対立する」物語なのだと言えます。
帆高は、物語のラスト近くで、「天気なんて、狂ったままでいいんだ!」と言い放ちます。このセリフこそがこの作品の発想の始まりだったと新海監督は語っているのですが、まさにそれが、90名近い死者を出した19号をはじめとして、未曾有の台風が日本各地を襲っているこの今の日本で公開されていることに、何か因縁めいたものを感じざるを得ません。奇しくも登場人物の一人、須賀が語るように、「誰か一人の命でこの災害が収まるなら……」と思う人間は少なくないはず。ましてや実際に親しい人間を失い住み家を奪われた人であればなおさら……。
あくまで架空の設定であって、古代アステカでもあるまいし、人間を生け贄に捧げても気候は何も変化は起こさないだろうけれども、人が自然と無関係に、切り離されて生きている訳ではないことも自明のことです。陽菜の苦悩は、人が自然に干渉し、その結果しっぺ返しを喰らう、生態系のありようそのものへのジレンマへと繋がっています。物語の最後に、陽菜は水没する東京の風景を前に祈りますが、既に天との絆は断ち切られていて、もはや何かで取り戻せる事態ではなくなっています。須賀はお前達が天候を動かした訳ではないと言い切り、帆高はいや、自分達が明らかに選択したのだと言い切りますが、その両者のせめぎ合いの中に、この厄災に対する「責任」の言葉は出て来ません。マーヴェル・コミックの主人公がことある毎に「大いなる力には大いなる責任が伴う」と繰り返し諭されるのとは大きな差があります。
あらためて振り返ってみれば、「君の名は」と同様、「天気の子」でも、二人の主人公のこれからの行く末に対して、はっきりとしたことは描かれていませんが、ただ彼らを見守る作者の優しい眼差しだけは、確かに感じ取る事ができました。一方で、この物語に一抹の違和感を覚える自分の中に、「誰かが代わりに犠牲になって欲しい。私ではなく」という感情が隠れていることに気付かされる、そういう作品でもあったと思うのです。
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