1月


【映画】アダムソン&ジェンソン「シュレック」

 「トイ・ストーリー」にしろ、「バグズ・ライフ」にしろ、全編フルCGのアニメーション作品は、そのテクニカルな部分が宣伝される割には、ストーリーに意外にひねりが効いていて、下手なスター主演の大作よりもよほど素直に楽しめます。今回の「シュレック」も、美男・美女俳優では演じきれないようなオチになってます。ま、実際問題として、俳優で成功するにはどのみち強烈な個性が必要だと思うので、必ずしも見栄えが良いより少しアクが強い方が印象に残るものなんですが。
 やはり向こうには「セサミ・ストリート」のようなマペットの楽しさが定着してるせいか、何かとキャラクターの表情や動きに味がある気がします。これはシュヴァンクマイエルなどヨーロッパの人形アニメのように、表情を抑えることによって動きにグロテスクさを醸し出す手法とは対局にあるようですね。私はどちらも好きなんですが。
 人から恐れられる緑色の怪物シュレックが、ひょんなことからファークアード卿の命ずるままドラゴンの城に囚われているフィオナ姫を救出することになるんだけど、その姫には秘密があって……という展開は、もうこれは「美女と野獣」のパターンではあるのですが、愛嬌のある「野獣」が最後にハンサムな姿に戻ってしまったのがちょっと興ざめ、と感じた人は、今回のラストには納得できるはず。もっとも製作はどちらもドリーケワークスの設立者カッツェンバーグなんですけど。
 身長1メートルしかない権力志向のファークアード卿の声は巨漢のジョン・リスゴー。しょうもない性格ながらやたらと完璧さを目指そうとするこのキャラクターは、しかしさほど残虐性を見せないので(物語の出だしで彼に捕らえられたおとぎの国のキャラクター達は、監禁されたかと思いきや、すぐに次の場面 でシュレックの家へと総出で押し掛けてるし……)、なんか結末も哀れな感じ。大男のシュレックには最初から親近感を持つフィオナも、チビのファークアードにははなっから興味を持たないしなあ。その分、ロバのドンキーのことを気に入ってしまうドラゴンの扱い方は結構いいなあ、と思ったけど。


【映画】ヤン・シュヴァンクマイエル「オテサーネク」

 シュヴァンクマイエルといえば、昨年6月の「ジャバウォッキー」をはじめとする短編上映がまだ記憶に新しいところなんですが、またまた新作長編がやって来たわけで、懲りまくった画面 作りで知られるこの監督にしては結構ハイペースな気が……。89年の「アリス」、94年の「ファウスト」、96年の「悦楽共犯者」、2000年の「オテサーネク」と、コンスタンスに新作が作られているのはうれしい限り。
 この新作長編の内容は、あらかじめ「夜想2マイナス」を読んで知ってはいました。「オテサーネク」はもともとチェコの民話。子供のできない夫婦が、木の切り株から男の子を作る。妻はその切り株を子供として育てるが、切り株はやがて動き出しおう盛な食欲を発揮し、ついには両親を食べてしまう、というのがもともとの民話のストーリー。出演者自身「誰が何のために作ったのか理解できない民話」だと告白している通 り、その民話そのものに教訓めいたものは一見ないようにみえるのですが……まああえてオチを付けるなら無理して子供なんか欲しがるな、とでもいうことになるのでしょうが、さすがにシュヴィンクマイエルの手にかかると、がらりと世界が変貌を遂げ、食欲が全てに優先されるこの奇怪な生き物が圧倒的な存在感でうごめきはじめます。
  冒頭から結構やってくれます。赤ん坊のクローズアップの連続した映像に、赤ん坊の泣き声とウェーバーの「魔弾の射手」の音楽が重なるオープニング。夫のホラークは婦人科の待合室の前で妊婦達を眺めている。ふと窓の外を見ると、魚売りが魚ならぬ 赤ん坊を水槽の中からすくい上げ、新聞紙にくるんで街頭で売っている。これはある意味自分たち夫婦の間に子供が産まれないのに、他人がやすやすと子供を作っていることに対するホラーク氏の焦りと羨望を映像化している様でもあるのですが、その表現自体が結構直接的でグロテスクで、センチメンタルな場面 にならないところがいかにもシュヴァンクマイエルです。夫はしかたなく庭で掘り起こした切り株を彫り、ニスを塗って人形にして(もちろんピノキオみたいな可愛らしい代物でなく、あくまで殆ど切り株のまんまであります!)妻に渡すのだけど、妻は狂喜し夢中で世話を焼くようになる。その様子をアパートで隣に住んでいる少女が盗み見する訳ですが、この少女にしても絵本のカバーで書名を隠して「性的機能障害」なんて本を読んでいるというなかなかに一筋縄ではいかない子で、さらに同じアパートには階段を昇るのがやっとという老人が少女のスカートを覗くことを楽しみにしているという有り様。ここら辺の人物描写 もいかにもではあります。
 さて、最初はおとなしく母親の乳房で満足していた切り株も、次第に尋常ではない旺盛な食欲を見せるようになり、同居していた飼い猫を食い、訪問してきた郵便配達人を食い、視察に来た福祉事務所の訪問員を襲う。暴れ回る切り株は例の通 りストップモーションアニメなのだけど、人を食らうシーンは「エイリアン」のような直接的な描写 は敢えて避けていて、逆に一つしかない切り株の穴から、歯が見えたり目玉が覗いたり舌がうごめいたりすることによって、この不思議な生き物の生命力を表現しています。
 命のないものが生命力を得て暴走する、という物語は、例えば「ゴーレム」などにも見られるものですが、親さえも食い尽くす食欲、という特性は確かにあまり他の民話には見られないもの。むしろおなじチェコのチャペックの作品「山椒魚戦争」「R.U.R」などの簡単には死なない山椒魚やロボット等に近い印象かも。シュヴァンクマイエルにとっては、次世代のあまりに「消費」を最優先する社会に対する警戒が念頭にあったと思われますが、どうもそう簡単には片付けられないみたい。映画では民話とは異なり、この切り株の怪物と少女との交流が描かれ、怪物はなぜか少女だけは食おうとはせず、少女は怪物を守ろうとさえします。「殺さないで! 寂しがり屋でかわいそうな子なの!」と哀願するあたりは、まるで「風の谷のナウシカ」のようで、シュヴァンクマイエルがこの怪物「オテサーネク」に投げ掛ける眼差しはなかなか複雑なのであります。
 思わず上映終了後、売り場にあった関連本を全て買ってしまったのですが、それによれば最初企画を立てたのはシュヴァンクマイエルの妻のエヴァ・シュヴァンクマイエロヴァーのようで、彼女が文と絵を担当した絵本も売っているほど。夫のヤンはエヴァ夫人を、希有な詩人であり自由な発想の持ち主として全幅の信頼を寄せているようで、今回も夫人が短編アニメーションとして準備していたものをあえて自分が監督して長編として仕上げたものなのだそうです。育てた子供に食われるという夫婦の悲劇を、芸術家夫妻が仲良く作っているというのもなかなか面 白い話ではありますが、切れ味の良いアイロニーの刃を備えながらも、不条理は不条理として受け入れようというふところの深さが、なによりもシュヴァンクマイエルの作品群の特徴であることを思えば、それも納得がいくというものでしょう。


【展覧会】上野の森美術館「MOMA展(ニューヨーク近代美術館名作展)」

 ニューヨーク近代美術館なるものの存在を知ったのが、そもそもダリの初期の代表作「記憶の固執」の収蔵元であることが画集に記されてあったからでして、そういう意味でも私にとっては「ニューヨーク近代美術館」といえばダリの「記憶の固執」なのでした。いつかはニューヨークまで足を運んで実物をこの目で見てみたいものだと思っていたのです。
 今回上野の「MOMA展」で、この「記憶の固執」が出品されると聞いて、これは見逃すわけにはいかない! と急ぎ出掛けたのですが、会場入口のごった返し状態で早くも気力は萎えました。大体どんな名作だって、満員電車の中で見せられたらそう落ち着いて美を味わう気持ちにはなれまいに……。入り口にはマティスの大作や彫刻が目玉 として置かれていましたが、あまり興味がないので先へと急ぐ……お目当てはあくまでダリの「記憶の固執」と「照らし出された欲望」の二作品。これさえじっくり眺められれば目的は果 たしたと言えよう。しかしこの二作品、画集に記されている限りではかなり小さめの作品。なにしろ画集に原寸サイズで載せられている程なのだ。この人だかりで近付いて見ることができるかしら……。
 果たしてこの二作品だけは、他の作品が壁に掛けられているのに対し、テーブルの上のガラスケースの中に入れられていて、上から眺められるようになっていました。行列に並んで辛抱強く順番が来るのを待つ……そして見ることが出来ました。鮮やかな色彩 、そしてどこか粘質的な筆遣い。まさに夢にまで見たダリの原画であります。
 「記憶の固執」1931年ダリ27才の時の作品。サイズは24センチ×33センチと漫画原稿並の大きさだけど、独特のモチーフである溶けかけた柔らかい時計、群がる蟻、極端にデフォルメされたダリの横顔、マリンブルーの鮮やかな空……と、ダリの世界では以降おなじみとなるものが凝縮された記念碑的作品。その小ささには今さらながら驚かされるけれど、さすがに画集で見るより数倍鮮やかな色彩 ……油絵の具を筆のタッチが見えなくなるほど滑らかに塗り重ねているので、微妙な光を反射してダリ特有の有機的なフォルムがよりなまめかしく見える……。何かの美術評論に、ダリは油絵作品では筆のタッチを消してしまうので、スケッチやペンの素描の方が彼の芸術作品の手かがりになりやすい、とか書かれていたような気がするのだけど、やはり私は、このねっとりとしたフォルムの描写 こそ、この有機体の官能性を引き出すには必要だったと思いますね。同じく展示されていたマティスやモディリアーニの絵の具の塗り方も、これはこれで良いとは思うんだけどどこかぺたんとした塗り絵みたいで、やはりこだわりというかむしろ偏執狂的な趣のあるダリの筆遣いの方が個人的には好きですね。
 「照らし出された欲望」1929年ダリ25才の時の作品。ガラと出会い、ブニュエルと作った映画「アンダルシアの犬」が上映された年でもあります。サイズは23.8センチ×34.7センチとこちらも小さい。その小さい画面 の中に函に入れられた三つの画中画があるという凝った構造。血のついたナイフを持った手を押さえ込むもう一つの手。頭に石を乗せた無数の自転車乗り。水差しになった女の顔。キリコやマグリットやマックス・エルンストの引用に近いモチーフがあるとはいえ、よりグロテスクで扇情的。パンフにも「ダリの図像学はもっと異常で人の苛立ちを煽るような状態を演出する」とありますが、まさに的を得た表現。黄・緑・赤・青といった原色を鮮やかに駆使しながら、しかも全体としてはむしろ引き締まった印象を与え、10倍に拡大したって十分鑑賞に差し支えないくらい濃密な空間を描き出しているのでした。にしても細かい……細かいだけでなくコントラストが強い。他の2メートルサイズの絵画作品よりよほど存在感があるぜ。
 他にもマグリットの「カーテンの宮殿」(空の絵と「空(ciel)」と書かれた絵とが並んで描かれた作品) 「旅の記憶」(部屋の中にいる男もライオンもロウソクさえも石になっている)や、ピカソ「座る水浴の女」クレー「夕暮れの火事」ミロ「オランダの室内」などが印象的でした。
 それにしても、この名作までもが今回5ヶ月もの間日本に貸し出されているということは、実際に海外の美術館に赴いても「某国に貸し出し中」ということで観れない可能性がおおいにあるということですね。うーん。私が実物を見てみたいものとして、ピカソの「ゲルニカ」ボスの「悦楽の園」(共にマドリードのブラド美術館所蔵)があるんですが、綿密に計画立てて出掛けてかつ貸し出し中だったら……いやだなあ。



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