でしたね.
彼らは,田中氏は改竄していると,遠くで叫んでいるだけで,討論会で支持者の前でそれを暴くとか,そんな事は絶対にしないなどと宣言しているのですから.(ex.“近現代史の真実とは何か”大月書店)
田中氏は改竄者だという論のみならず,大虐殺説を自ら放棄しているに等しい.
だから私は大虐殺派が田中氏が改竄していて云々って言っても耳を傾けなかったのだった…
岡田の4月 3日(火)01時27分13秒の書きこみ「文献の 書き換え行為は 厳禁だ」 で、
「松尾氏の行為は、とても「一度のミス」というレベルではないでしょう。」と書いていましたが、
これは「田中正明氏の行為は、とても「一度のミス」というレベルではないでしょう。」の間違いでした。
失礼しました。
>>要するに北の狼さんは「改竄に意図/故意が必須か否か」について議論したいわけですね?
>「議論したいわけですね?」というか、私はもう既にさんざん主張もし議論もしているのですが。
岡田は「改竄に意図/故意が必須か否か」はすでに決着がついていたと
考えていたのですけど?
改竄については今までに以下の3つの辞書の定義が示されています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
改竄:文章を故意に改め直すこと。(『国語中辞典』角川)
かいざん 【改竄】 (名)スル〔「竄」は改めかえる意〕文書の字句などを書き直してしまうこと。普通、悪用する場合にいう。「帳簿を―する」(大辞林第二版)
【改刪】かいさん =【改竄】かいざん→文字や語句などを改める。刪は削る、竄は、あらためる。(角川)新字源
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
意図が必要条件なのが1、意図が必要ないというのが1、普通は意図があると言うのが1で、
一致していません。
このことから、「改竄に意図が必要か不用か」の問題は、境界条件であると言えます。
境界条件である以上以下が成立します。
(1)意図が証明されていなくても、書き換えは「改竄」だ、と主張すること→OK
(2)意図が証明されていないから、書き換えは「改竄」とは言えない、と主張すること→OK
(3)意図が証明されていない書き換えを「改竄」とするのは中傷行為だ、と主張すること→NG
(4)意図が証明されていないからといって、書き換えが「改竄でない」とするのは欺瞞だ、と主張すること→NG
(1)と(2)は矛盾していますが、どちらを主張しても嘘とはいえない。
矛盾の原因は言葉の定義が明確でないためです。
ところで、北の狼さんは自身の3月24日(土)01時21分24秒の書き込みを覚えていますか?
この書き込みの中で、北の狼さんは以下のように主張されています。
岡田>>
・・・
>>太郎は挿入された文を自説を補強するために利用した。
・・・
北の狼さん>
>おいおい、大丈夫かよ。
>「自説を補強するため」って何だよ?
>「自説を補強するため」という「意図」でもって「利用した」ということではないんかよ。
>「意図の有無が不明である事を前提に」とか「書き替えた人物の意図を立証しなくても」などと言
>いながら、明確な「意図」を入れるとは、どういう了見なのやら。
北の狼さんは3月24日には「挿入された文を自説を補強するために利用した」には
明確な「意図」が入っていると主張されています。
田中正明氏は自身が挿入した文章を自説を補強するために利用しています。
北の狼さんの3月24日の主張に従えば、田中正明氏には明確な意図があった事になります。
北の狼さんの3月24日の主張に従えば、「意図無し」を前提にした北の狼さんの主張は無意味になります。
>(1)「意図(悪意)あり」ということを「改竄」の構成要件とするのか、しないのか?
>(2)「意図(悪意)あり」ということをどのように判断するのか?
>
>(1)と(2)は、同じく「意図あり」に関して問題にしていますが、本質的に別の問題ですね。
>(1)は、「定義」や「構成要件」の問題ですし、(2)は、実際に判断する「技術」や「手法」の問題です
>ね。
>
>今回の岡田さんのいう「必要十分条件」というのは、(2)についてですね。
その通りです。
>それで本題に入りますと、「必要十分条件」の「必要条件」ですが、これは”事実”そのものでしょう。
・・・
>「十分条件」については、本人の自由意思に基づいた証言、すなわち「自白」ということになると思います。
・・・
# 意図の立証の十分条件が「自白」のみということは、事実上「第三者による意図の立証は殆ど不可能」と
#いうことですね。
# 北の狼さんの指摘によれば、(自白がなければ)松本智津夫も「無罪」になるのかな?
ところで、北の狼さんは自身の3月24日(土)01時21分24秒の書き込みを覚えていますか?
この書き込みの中で、北の狼さんは以下のように主張されています。
岡田>>
・・・
>>太郎は挿入された文を自説を補強するために利用した。
・・・
北の狼さん>
>おいおい、大丈夫かよ。
>「自説を補強するため」って何だよ?
>「自説を補強するため」という「意図」でもって「利用した」ということではないんかよ。
>「意図の有無が不明である事を前提に」とか「書き替えた人物の意図を立証しなくても」などと言
>いながら、明確な「意図」を入れるとは、どういう了見なのやら。
北の狼さんは3月24日には「挿入された文を自説を補強するために利用した」には
明確な「意図」が入っていると主張されています。
田中正明氏は自身が挿入した文章を自説を補強するために利用しています。
(A)仮に北の狼さんの3月24日の主張に従えば、田中正明氏には明確な意図があった事になり、
田中正明氏の改竄が立証される。
(B)仮に意図の立証の十分条件が「自白」のみと言う説に従うならば、第三者による意図の
立証は事実上不可能であり、「改竄には意図の立証が必要」という説は無意味になる。
>問われるべきは、人を跳ねたという(傷害)行為自体が「故意」か「過失」か、ということですね。
・・・
乗用車が、歩道に乗り上げて、逃げ回る特定の人物の後とを100mも走行したあげく、
該当する人を跳ねて死なせたら、ドライバーが故意を否定しようと「殺人」でしょう。
>しかし、”別の(致命的な)薬剤を投与した”ことに関しては、「故意」になされることもあれば、「過失」
>でなされることもあるのです。
・・・
通常はまず使われず他の薬剤とは別の場所に保管してある筋弛緩剤を、准看護士が点滴に加えていて、
その後患者が死亡したら、准看護士が故意を否定しようと「殺人」でしょう。
>「書き加え」という行為も、それらと同じことです。つまり、ある行為について、どういう”側面、観点”か
>ら「故意」か「過失」か問うべきなのかということです。
>「書き加え」という行為自体は、当然、故意になされますが、しかし、その行為自体は「故意」か「過失」か
>という判断の対象にはならないのです。
>「書き加え」は、そのことを「注記」ないしは「補記」で断わっておけば、全く問題はありません。
>問題なのは、「書き加え」たことを「注記」ないしは「補記」で断わるべきところ、それが欠落していた、そ
>して、そのことが「故意」か「過失」かこということにこそあるのです。
日記を他の資料で補足する場合には、普通は地の文と補足する文を続けて書くことはまずないし、
「注記」の記述のほかに出典の明記も必要です。
日記(一級資料)の地の文にメモ(三級資料)を区別しないでくっつけて書いて、「注記」の
記述もなく、出典の明記もない状態で、追加したメモを自説の補強に使っていたら、訳者・編者が
故意を否定しようと「改竄」でしょう。
>岡田さんの論法:
>
>「過失では起こり得ない書き加え」=「改竄」である。
>↓
>田中氏の「書き加え」は「過失」では起こりえない。
>↓
>従って、田中氏の「書き加え」は「改竄」である。
>
>岡田さんは、上でいろいろややこしいことを言ってますが、要はこういうことです。
ここまでは的確な要約だと思いますよ。
>そもそも、凡そ(田中氏が行ったような)メモの挿入といったタイプの「書き加え」は、「故意」になされ
>る、すなわち「過失」ではまず起こりえないのであり、そして、そのこと自体は問題にならないのです。
問題になるのは、「注記」ないしは「補記」が欠落しており、それが「故意」なのか「過失」なのかというこ
>とです。
繰り返しになりますが・・・
日記(一級資料)の地の文にメモ(三級資料)を区別しないでくっつけて書いて、「注記」の
記述もなく、出典の明記もなく、追加した部分のみを元に自説の補強を計るというのは、
過失では起こり得ないと思いますが?
>従って、最初の「過失では起こり得ない書き加え」=「改竄」という部分に誤りがあるのです。
北の狼さんは過失で、上で書いたような事が起こりうるとお考えでしょうか?
>PS.老婆心ながら、板倉氏が「虐殺否定派」だというのは、訂正しておいた方がいいですよ。
この部分については岡田の方が間違っていたようですね。
誰かがどこかで「板倉氏は虐殺否定派」と言っていたように記憶していたので、確かめもせずに
書いていたのですが、確認して見たところ板倉氏は少数派と呼ばれているようですね。
失礼しました。
==================
>現在は、田中氏が用いている資料は、殆ど他の著書で確認できる状況なのではないかと思います。
誰か田中氏が用いている資料を他の著書で確認して、齟齬がないか保証した人がいるのでしょうか?
# 北の狼さんは確認されましたか? 松尾さんは確認されているのでしょうか?
==================(岡田さん)
私のコメントと岡田さんの質問の繋がりが、よく理解できませんな。
白虎党さんの
「ただし、田中氏の他著についても、その引用史料は原本に当たる必要があります」
というコメントに対して、私が
「原本にあたらずとも、他の人も(原本から)引用しており、それと齟齬がないか確認するということでもいいと思いますが」
と答え、さらに私が
「現在は、田中氏が用いている資料は、殆ど他の著書で確認できる状況なのではないかと思います」
と追加したら、どうして
(田中氏が用いている資料を他の著書で確認して、齟齬がないか)
「北の狼さんは確認されましたか?」
という質問が出てくるのでしょうか?
私のコメントは、「引用史料の確認の仕方」について述べているのであって、「確認すべきかどうか」について述べているのではありませんが。
====================
>こうなると、田中氏を「信用するか」「信用しないか」という問題になってきますが、
違いますね。
第三者が確認したか否かの問題です。
====================(岡田さん)
全然違わないですね。
岡田さんが、第三者の検証が必要であると主張しているのは「資料の引用」ですね。
田中氏の『松井日記』はあくまで「翻訳(本)」なんですよ。
ある人の「翻訳(本)」に誤りがあった場合、その人の「翻訳能力」や「翻訳というものに対する認識」に疑問符がつけられるのは当然のことで、”その人が翻訳した他の本”については同様の誤りがないか検証することは合理的な態度です。
しかし、ある「翻訳(本)」に誤りがあったからといって、それ以外の著書全てをも当然に検証しなければいけないということにはなりません(もちろん、自発的に検証するのはその人の勝手ですが)。「翻訳能力」や「翻訳というものに対する認識」と、「資料の引用」が正確かどうかは、別の問題なのですから(ただし、「資料の引用」に翻訳という過程が入った場合は、この限りではありませんが)。
つまり、「(翻訳以外の)他の全ての著書」も検証すべきだということは、「その人自身に対する信用」が無くなったということになるんですよ。
ここで、私のコメントを再掲します。
>>白虎党さん
>>ただし、田中氏の他著についても、その引用史料は原本に当たる必要があります。
>>これはこの場合、自然のことだと思います。
>こうなると、田中氏を「信用するか」「信用しないか」という問題になってきますが、
>一度の「ミス」ぐらいで人を全く信用しなくなるほど私は疑り深くないですし、『松井
>日記』以外は別にそういった問題は無いんじゃないでしょうか。
分かりますか?
田中氏の「翻訳(本)」に誤りがあったからといって「田中氏の他著についても、その引用史料は原本に当たる必要があ」るということになってきますと、単に「翻訳能力」や「翻訳というものに対する認識」への疑問符ということではなく、その人自身すなわち「田中氏を『信用するか』『信用しないか』という問題になってきます」ということになるんですよ。「資料の引用」には、「翻訳」のように特別な能力やテクニックを必要とされませんからね。
ただし、ある人の「翻訳(本)」に誤りがあったことのみで、その人自身の人格が疑われる場合もあります。
どういう場合かというと、「翻訳(本)」の誤りに、正に「悪意」があった場合ですよ。「悪意」とは、「どうせ誰にも分からないであろうから、自分に都合がいいように書き直してやれ」とか「ここは一つ、読者を騙してやれ」などといった悪しき意図のことです。
そのような「悪意」があった場合は、その人自身に対する信用が失われることになり、したがって、(同じ人の行為である)「資料の引用」にも同様の「悪意」が働いているのではないかとの合理的な推定が成り立ち、岡田さんの検証しろという主張は説得力をもつことになるんですよ。つまり、岡田さんが、田中氏による「資料の引用」も検証すべきと他人に対して合理的に主張するためには、田中氏自身に信用がなくなったこと、すなわち田中氏の「翻訳(本)」の誤りは「悪意」によるものだったことを立証すべきなんですよ。
============================
田中氏の行為は、とても「一度のミス」というレベルではないでしょう。
============================(岡田さん)
「一度のミス」とは、『松井日記』という一つの本のミスという意味です。
============================
>理解しやすい、読みやすい、ということでしたら、意味・内容を変更しないという条件で、「意訳」してくれ
>た方がいいと思う場合もありますので。
一般人向けの読み物だと北の狼さんの意見(意訳でもいい)も成り立つ場合があります。
でも学問(歴史学も含む)の世界では、資料や文献に訳者・編者が手を加えることは、絶対のタブーなのです。
=============================(岡田さん)
田中氏の『松井日記』を、「学術書」だと思っている人はあまりいないでしょうな。いるとすれば、「学術書」を読んだことが無い人間でしょう。『松井日記』に限らず、『ラーベの日記(「南京の真実」)』なんかもね。
『松井日記』は、『ラーベの日記(「南京の真実」)』同様、正に一般人向けの著書ですよ。
また、田中氏は、別に「資料や文献」に手を加えたわけではありません。
「資料」を翻訳したのです。
この辺の違いを再確認するため、私の以下の意見を再掲しておきましょう。
=====
・「改竄(する)」というからには、当然、その対象(目的語)が前提されている。
その対象とは「資料」であり、資料とは「松井日記(草書体の原文)」に他ならない。
しかし、田中氏は「松井日記(草書体の原文)」そのものを改め直して出版したわけではない。
あくまで、それを氏なりに訳したもの(「訳本」)を出版したのである。
従って、この意味で、「田中氏が資料=『松井日記(草書体の原文)』を改竄した」というのは事実に反する。
=====
「カルテの改竄」とは、「カルテそのもの」の記載を改め直すことです。例えば、英語で書かれたカルテを誤って翻訳し提示した場合、「カルテの改竄」とは言いません。「カルテの誤訳」と言います。
同様に、「資料の改竄」とは、「資料そのもの」の記載を改め直すことです。例えば、草書体で書かれた資料を誤って翻訳し提示した場合、「資料の改竄」とは言いません。「資料の誤訳」と言います。
そして「資料や文献に訳者・編者が手を加えること」とは、例えば、資料を引用・転載する際にその資料の記載に手を加えて「資料そのもの」として提示(引用、転載)することです。
岡田さんが、「学問(歴史学も含む)の世界では、資料や文献に訳者・編者が手を加えることは、絶対のタブーなのです」として田中氏を非難したいのであれば、少なくとも、田中氏が「資料や文献」に手を加えて、それを「資料や文献そのもの」として引用・転載して提示した例を一つあげなければなりません(まあ、漢字や仮名の表記変え、誤字や脱字ぐらいは別として)。
また、岡田さんは「最大のタブー」を連発していますが、なぜ「最大のタブー」なのか説明できますか?
==============================
>田中氏の著書で、「メモ」の挿入は別として、原文の意味・内容を変えたというような部分は殆どないと思い
>ますよ。どこか、ありましたっけ?
田中氏の著書では、(メモの挿入以外でも)かなり多くの部分で、原文の意味・内容が変わっています。
==============================(岡田さん)
私は「九○○カ所原文とズレ」という『朝日新聞』の批判がありましたので、この「ズレ」を「不注意や不慣れのミスかも(大きいミスだが)」(>白虎党さん)の「大きいミス」、すなわち「意味や内容の変化」として、さすがにそれはないだろうと思って”殆ど”と書きましたが、田中氏の『松井日記』を所有していない私としては、上の言説は不適切でしたね。
ということで、以下のように訂正します。
=======
田中氏の著書で、「メモ」の挿入は別として、原文の意味・内容を変えたというような部分は、どのようなものが、どれくらいありますか?
=======
============================
いくつか例をあげてみましょうか。
(1)昭和12年11月22日
日記の原文 両軍ノ補給ハ連日ノ追撃前進ニ伴ハス
田中氏の訳 両軍の補給は連日の追撃前進に伴『ひて』
内容の違い 「補給が伴わなかった」という文が、訳では正反対の「補給が伴っていた」に書き変わっている。
日本軍の略奪の原因として、補給の不備があげられている。
原文だと略奪があった説を補強することになるが、訳では略奪の否定を補強するよう180°変わっている。
============================(岡田さん)
まずは、岡田さんは「原文」と言ってますが、これは違うでしょう。「原文」は「草書体」とのことですよ。
専門家等による(正確とされる)訳のことでしょう。例えば『南京戦史』とか。
内容に入りますが、『ひて』は「誤訳」でしょうね。
しかし、この部分は岡田さんの言うように意味や内容が変化しているでしょうか?
『南京戦史』より、同部以下の文を引用します。
「両軍ノ補給ハ連日ノ追撃前進ニ伴ハス已ムナク飛行機ヲ以テ空中ヨリ糧食、弾薬ヲ投下シ、其急ヲ救フの状ナリシカ今日ノ晴天トカ御蔭シ今後逐日其情勢ヲ恢復スル事ヲ得ン。」
岡田さん、田中氏の『松井日記』では「両軍の補給は連日の追撃前進に伴ひて」以下の部分はどうなっていますか?
上の『南京戦史』と大差はありますか?
以下は、両者に大差がないものとして、話しをします。
田中氏の訳が「やむなく飛行機をもって空中より糧食、弾薬を投下して、その急を救うの状であった」という趣旨のものなら、『南京戦史』と田中氏の『松井日記』との意味は殆ど変わりませんね。
岡田さんの解釈どおりだとすると、
「補給が伴っており、やむなく飛行機をもって空中より糧食、弾薬を投下して、その急を救うの状であった」
という日本語になり、これは変なことになりますね。
しかし、田中氏の訳を普通に読めば
「両軍の補給は、連日の追撃前進に伴ひて(伴って)、やむなく飛行機をもって空中より糧食、弾薬を投下して、その急を救うという状態にあいなった」
という解釈になり、これは、「連日の追撃前進に伴い『補給の不備』が生じた」ことを肯定しているわけで、『南京戦史』の訳とそう変わらないことになります。
つまり、岡田さんの引用は恣意的または不適切な「部分引用」ということになり、「補給が伴っていた」とする岡田さんの解釈は誤りと言っていい。
再度聞きますが、田中氏の『松井日記』では「両軍の補給は連日の追撃前進に伴ひて」以下の部分はどうなっていますか?
==========================
(2)日付 昭和12年11月22日
日記の原文 城内残留内外人ハ一時不少恐怖ノ情ナリシカ我軍ノ漸次落付クト共ニ漸ク
安堵シ来レリ
田中氏の訳 城内残留内外人は一時『多少』恐怖の色ありしが、我軍『(による)治安』
漸次落付くと共に漸く安堵し来れり
内容の違い 「外国人は最初少なからず恐怖していたが、日本軍が落ち着いてきたので安堵した」という文章が、
「外国人は最初多少恐怖していたが、日本軍が治安を回復し安堵したに変わっている。
原文では恐怖の対象は「落ち着いていない(殺気立った)日本軍」であったのに、訳では恐怖の対象が「治安の乱れ」に変わっている、そして日本軍が治安を落ち着かせたことになっている。
「日本軍が恐怖の対象だった」という文が「日本軍が恐怖から救った」と言うように180°変わっている。
尚、恐怖の量も少なからず(多い)から、多少(少ない)に変わっている。
=========================(岡田さん)
まずは日付から。上は11月22日ではなく、12月20日ですよね。
次に、上の文の直前には「尚聞ク所」とあり、後には「一時我将兵ニヨリ少数ノ掠奪行為(主トシテ家具等ナリ)強姦等モアリシ如ク、多少ハ已ムナキ実情ナリ」とありますね(『南京戦史』)。つまり、この段落は以下のようになってます。
「尚聞ク所、城内残留内外人ハ一時不少恐怖ノ情ナリシカ、我軍ノ漸次落付クト共ニ漸ク安堵シ来レリ、一時我将兵ニヨリ少数ノ掠奪行為(主トシテ家具等ナリ)強姦等モアリシ如ク、多少ハ已ムナキ実情ナリ」
つまり「外国人は最初少なからず恐怖していたが、日本軍が落ち着いてきたので安堵した」の部分は、松井将軍の伝聞ですね。一応、確認しておきましょう。
・『多少』は『不少』の誤訳でしょうね。
しかし、『多少』は「少ない」という意味ではありません。「多いかまたは少ない」という意味で、これは量については不定なのです。
・『我軍(による)治安漸次落付く』は、『我軍を原因とする治安漸次落付く』と解釈するのが普通なのでは?
「我軍による」は形容詞句であり、従って「治安」という名詞にかかると考えるのが普通でしょうから。
「我軍の落ち着く」では、「我軍」の”何”が落ち着くのか今いち不明瞭ですね。そこで「治安」が落ち着くとすれば、意味がより明瞭になるわけです。
つまり、『我軍(による)治安漸次落付く』は、岡田さんのいうように「日本軍が治安を回復し」ではないんですよ。「日本軍の治安が漸次落ち着く」という意味です。
これが『我軍(によ”り”)治安漸時落ち着く』ということでしたら、岡田さんの「日本軍が治安を回復し」との解釈も当然ということになりますが。
この場合は、「我軍により」は副詞句であり、従って「落ち着く」という動詞にかかることになりますから。
以上、この例も、岡田さんの解釈は誤ってますね。
======================
(3)日付 昭和13年2月8日
日記の原文 兎ニ角支那人ヲ懐カシメ之ヲ可愛カリ憐ム丈ニテ足ルヲ以テ
田中氏の訳 兎に角支那人を『慈しめ、』懐かしめ、之を可愛がり、憐むこと、『只其慈
悲心の心』だけにて足るを以て
内容の違い 『慈しめ、』『只其慈悲心の心』が追加されて松井大将がより中国人に対して
同情的なように変わっている。
======================(岡田さん)
確かに、『慈しめ、』『只其慈悲心の心』が加わってますね。
ただ、内容としては、「懐カシメ之ヲ可愛カリ憐ム」のみで充分に「中国人に対して同情的」だと思いますが。
想像ですが、田中氏としては、「懐カシメ之ヲ可愛カリ憐ム」ことを明確な言葉で表現したかったという希望があったのでは。
>まだまだありますが・・・
岡田さんのあげた例については、確かに”多少”は意味や内容が変わっているとは言えますが、殆ど「誤訳」、「意訳」のレベルと言っていいのでは。少なくとも、意味や内容が180度変わっていると断言できる例はないですね。
むしろ、岡田さんによる(1)や(2)の解釈の方が、意味が大きく変わっていますね。
以上、三例の紹介に感謝します。
そして、岡田さんの手間暇が許す限り、残りの分もなるべく紹介して下さることを希望します。
一般に、言語学の素人は辞書の記述が当該言語の真理であるかのごとく
に解釈する例が多い。言語学者の一部にさえ、時として同様の誤解が見られる。
そこで、この際、そもそも辞書とは何であるかを簡単に述べておきたい。
辞書とは、つまるところ、言語学者による当該言語の不完全な仮説にすぎない。
言語学者は、確かに、個別言語を深く研究して、その意味、統語、音声の
実態を理解しようと努めてはいるが、決してそのすべてを解明できている
わけではない。むしろ、言語の一部を不完全に記述できているに過ぎない。
言語学者といえども、神ならぬ身、間違うことも多々あるのである。
辞書を作る際には、使える資料は何でも使って、個々の単語の意味を確定しよう
とする。しかし、締め切りに間に合わせなければならないため、辞書に記載するすべての
単語に関して詳細な調査・研究が出来ない場合が多い。見切り発車が行われる
ゆえんである。また、辞書はある程度以上大きくするわけには行かない。それゆえ、
詳しく調べた結果の多くを泣く泣く削らなければならない場合がほとんどである。
このような制約を受けながら、辞書は出版されるのであるから、当然、
記述に誤りが出てくる場合もある。必要な単語が載っていない場合もある。また、
単語の定義に入れるべき要素を入れ忘れることもある。あるいは、そもそも、
複雑な単語の意味を理解できずに、時間切れを迎えて、誤った定義が書き込まれる
ことも無いわけではない。
以上のごとく、辞書とは、言語学者が自身の研究の結果を不完全な形で
表出せざるをえない出版物なのである。であるから、辞書を使用する側は
常に、注意を怠るわけには行かない。特に、単語の細かい定義が問題になる
際は、辞書に記載されている定義以上の細かさが要求される。このような時、
我々はどうしたらよいのだろうか。答えは、一つしかない。我々自身が
言語学者の役割を演じることである。幸いにして、日常使う日本語の単語に
関しては、日本人である我々にとって、言語学者の役割を、演じることは比較的
容易である。なぜなら、そのような単語の意味を確定するための資料は、我々自身の
頭の中に無意識の状態で収められているからである。具体的には、その単語を含む文をいくつか
作り、どのような単語の組み合わせが、自然で、どのような単語の組み合わせが
不自然かを観察してみると良い。(これを言語学の「実験」ということがある。
実験設備のいらない、金のかからない実験である。)このような実験を繰り返していくうち
実験文の一部を変えたとき、自然さが生じたり、損なわれたりする例に出くわすかもしれない。
こういう実験文のペアーを見つけ出すことが出来れば、単語の意味の確定作業も
いよいよ佳境に入ったと考えてよい。例えば、次の例を見てみよう。
1)太郎は、うっかりミスで、実験結果を捏造した。
2)太郎は、実験の成功を印象付けるため、実験結果を捏造した。
この対比(最小対立)では、1)は不自然で、2)は自然である。
この判断が、実験結果である。では、なぜこのような結果が
生じたのであろう。これらの文の唯一の違いは、
「うっかりミスで」と「実験の成功を印象付けるため」とが
それぞれ使われているという部分のみである。したがって、
この二つの副詞句の間の意味の対立が、文全体の自然さに
かかわっているに違いない。前者は、主語の意図性(主語に
都合がよくなるように行動するという意図)を否定
しているのに対して、後者は、主語の意図性を肯定している。
前者の副詞句を使うと、文全体が不自然となるのだから、
主語の意図性を否定しながら、「捏造」という単語が使えない
という結論に達する。とすると、「捏造」という現代日本語の
単語には、主語の意図性を要求するという意味要素があるはず
である。
以上のように、単語の意味を細かく規定していくことが出来るわけである。
これで、市販の辞書にどのような記述があろうとも、「捏造」
という単語には、「意図性」が必要であるということが
明らかとなったと言えるのである。とにかく、辞書もしょせんは
神ならぬ人間が作ったものなのだから、間違えることもあるのだという
認識を持つ事はどんな立場の人間にとっても有意義であると思う。