=======================
>通常、「犯意」の立証義務は検察側、すなわち犯意があると主張する側
>にあります。
を見て、なんか「脱・ゴー宣」(p.29)での従軍慰安婦に関する上杉聡さんの論理展開を思い出しました。
でも、残念でした。私は、田中正明氏の「改竄」行為を犯罪とは言ってません。あの「改竄」はたとえ悪意があっても犯罪にはならないからです。
逆に、岡田さんがここで初めてその話を持出したのは松尾さんのHPで田中正明氏が朝日新聞に誹謗・中傷されたと主張されておられる事についてです。
もし仮に、名誉毀損で損害賠償請求されるのであれば証明責任は田中正明氏側にあるのです。
===================(浅見さん)
浅見さん、私は別に今回の件で裁判がどうのと言っているわけではありません。
あくまで、議論のすすめ方についての言説です。その例えとして、裁判の例を出したにすぎません。
上の言説は、浅見さんの
>しかし、「記述変更の認識」がある場合の多くは経験則から「悪意」があると推定されるの
>です。(浅見さん)
との言説を受けて、私が、
>私は、「推定」のみでは、悪意があったと「判断」することはできないと思います。
>「推定」では、あくまで「疑惑」にすぎませんね。
と返し、そして単なる「疑惑」ではなく、合理的に判断できるというのなら、それを立証せよ、何故なら
>「犯意」が無いということは理論的に証明不可能だからです。
と言うことです。
要するに、「経験則」のみでは「推定」にとどまるのであり、それでは「疑惑」にすぎない、「改竄」と「判断」するのなら(そう判断した者が)立証せよ、ということですね。
実際に誰かが誰かを訴える、とか言う話しなのではありません。
>田中正明氏の松井日記書き換えの場合には田中正明氏に(歴史的意義における)松井日記の
>正当な作成・訂正権がありませんので悪意の有無にかかわらず「改竄」です。
「(歴史的意義における)松井日記の正当な作成・訂正権」とは何でしょうか?
田中氏は、別に「松井日記(原文)」を「作成・訂正」したわけではありませんが。
>そしてその場合には「悪意」が推定されるのです。
「推定」では「疑惑」にすぎません。
もちろん、単に「疑惑」の存在を主張するのみなら、それを立証する必要はありませんが。
田中正明氏に悪意の推定がある場合、(悪意のなかった事の)立証責任は田中正明氏に移るのです。憶測で言うのも何ですが、おそらく、田中正明氏は朝日新聞を名誉毀損で訴えられていないと思います。その大きな理由の一つが田中正明氏に悪意の推定があり、(悪意のなかった事の)立証責任を田中正明氏が負わねばならないからです。
p.s.ここは単線型掲示板の性質と投稿数の多さから流れが早いので議論がきついですね。まあ、お互いに議論を延期できるなら延期したいということで停戦に合意しますよ。将来、「中日自由討論留言版」で再開しませんか?参照URLにしときます。
北の狼さん、遅くなりました。白虎党です。はじめまして。
まず、『田中氏の著書は、「松井日記」を原文のまま、すなわち「草書体」で
公開したのですか?』とのご質問ですが、答えは「いいえ」です。
次に、私の投稿内容の主旨を、先述のものより、少し詳しく説明します。
「(角川)新字源 : 【改刪】かいさん =【改竄】かいざん→文字や語句など
を改める。刪は削る、竄は、あらためる。」
上を調べたのは、漢字の原義、またはそれに近い語釈では、改竄の意味は、
どう説明されているか、を知りたかったからです。そして、ここに示されて
いるのは、改竄とは、端的に言えば、文字・語句などを改めること、という
ことです。つまり、「原本通り」のはずの史料と、原本を校合させた結果、
「文字・語句など」が、原本の表記に対し、一部でも改められていれば、そ
れは、「改竄されている」と言えるのです。ただし、ここでは、善意・悪意
の有無は捨象された状態にあります。改めること自体を改竄、というのが、
この辞典の示すところだからです。
また、一般的語義をメインとする国語系の辞典は、「文字や語句を改める」
との主旨の意に、+「悪意」の意を付加した語釈を採るものが多いと思われ
ます。
つまり、漢字の原義を踏まえつつ、漢・国両辞典の示す意味を見れば、改竄
とは、「悪意で文字・語句を改める」こと、となるのでしょう。そして、こ
の史料は改竄されている、改竄者は編著者、出版編集者の中にいる、と、先
ずは判断されることになります。ただし、北の狼さんのご指摘のように、ミ
スや誤訳と判断されるものは、上の意味での改竄では、無論ありません。
次に、うっかりミスや誤訳か否か、改竄か否かは、真正の原本との突合せ
により、どのくらい、どのような異同が、対象史料との間に認められるか、
を調べて判断する以外にありません。もちろんこの場合、対象史料の取材
や編集などに関わった人の説明もまた、十分な判断材料の一つとなると思
います。
ただし、原本には無い「文」(文字・語句のみでなく)があったり
すると、改竄の疑いは、とりあえず濃厚となると思います。しかし、それ
は注釈部分で、注、や、他の何らかの方式で、本文と明別し損なった、と
いうことも、これまたあり得ることです。この場合、これを竄入というそ
うですが。例えば「南京の真実」という本があります。これを「ラーべの
日記」と言う人が多いのですが、これは間違いで、「南京の真実」が正し
いのです。なぜならば、ラーベ日記以外に、同僚の手紙や公文書などが、
適宜、挿入されているからです。編訳者はこれを「理解を助けるため」と
の理由で断り書きを入れています。また、本文中でもそれと判るように、
明確に「日記」と区別されています。これが、もし断り書きもなく、日記
との区別もされていなかったら、大問題になったことでしょう。やはり、
改竄、と言われたことと思います。ですから、理解を助けるために持って
きたのだが、区別し損ないのミスを犯した、ということはあり得ないこと
でもない、と私は考えます。
上のように、私の書き込みは、語義から入った一般論として受け取ってく
ださい。各氏が述べられたことでもありますが、私の考えでもあります。
一部引用が前後します
>>田中正明氏の訳文には、原文に存在しない以下の文が書き加えられている。(岡田氏)
>私は、(岡田さんが引用した部分に関しては)「書き加え」について論じているのではありません(「書き
>加え」については、また別の話しです)。
あの〜
岡田が「改竄」断定の根拠にしてるのは、田中正明氏による「書き加え」の部分なのですが・・・
「書き加え」を別な話としてしまうと、「改竄一般の話」の話にはなりえても、田中正明氏の
改竄問題から外れますよ。
田中正明氏の改竄問題から外れたら、岡田の書き込みを中傷と非難する根拠にならないと思いますけど。
>「『書き換え』について、以下の例で考えてみましょう」とあらかじめ敢て断わっているように、ここでは
>「書き換え」についてのみ論じているのです。従って、「田中正明氏の訳文には、原文に存在しない以下の
>文が書き加えられている」云々は、私の(その部分への)反論にはなっていません。
「書き加え」を含まない「書き換え」について論じるのなら、岡田に対する非難の根拠に
ならないと思いますが?
>#ある人が、ある資料から「1937年12月、日本軍は南京を攻略した」という記述を引用することにした。
>#その人は、「(出所を明記した上で)資料には『1937年11月、日本軍は南京を攻略した』とある」
>と書き換えて引用した。
>
>上の引用文では、資料の「12月」が「11月」に書き換わっていますね。
>これは「資料の改謬」ですか? それとも「資料の引用ミス・書き間違い」ですか?
岡田には上記条件だけでは資料の改謬・引用ミス・書き間違いの何れなのか判断できません。
>私は、上の例は、引用者が”故意”に書き換えたのであれば「悪意のある書き換え」すなわち「資料の改
>謬」、”故意”がなかったとすれば「悪意のない書き換え」すなわち「資料の引用ミス・書き誤り」などと
>します。
故意か過失かが分かれば、岡田も同様に判断しますが、上記例だけでは岡田には判断できないので
「判断保留」とします。
>問題になったのは、あくまで、それを”訳した”「松井日記」に原文との齟齬があったということです。田
>中氏の「松井日記」が”訳文”である以上、「資料の改竄」との範疇には入らないと思います。あくまで、
>「資料の誤訳」だと思います。ただし、「誤訳」には、悪意のものと、そうでないものとがあるのであり、
>田中氏の誤訳はどれか、という問題になりますね。
>「原資料」と田中氏の「翻訳」に齟齬があった。
>↓
>とりあえず、田中氏に「改竄者」というレッテルをはる。
>↓
>「改竄」には悪しきイメージがある。
>↓
>従って、田中氏は「悪しき人物」であるという、イメージが植え付けられる。
>
>こういう目的で「レッテルはり」をしているとすれば、「悪しき批判」の典型であり、その行為は批判され
>てしかるべきです。
こらこら、勝手に決めつけるな。
岡田の論法は以下のようなものです
「原資料」と田中氏の「翻訳」に「書き加え」という、うっかりミスではありえない齟齬があった。
田中正明氏は書き加えた文を自説を補強するために利用した。
↓
資料を翻訳する際に「書き加え」を行うことは「改竄」である。
↓
学問の世界では「改竄」や「捏造」を行った人物の信頼性は崩壊する。
↓
学問の世界では「改竄」や「捏造」を行った人物の出した資料や文献は、第三者の検証や保証無しには、
一切評価されない。
↓
従って、田中氏の出した資料や文献やそれらを元にした主張は、第三者の検証や保証無しには、
一切評価されない。
>原本にない文章が挿入されたことについては、そこに当然「記述変更の認識」があったことになります。
>しかし、「記述変更の認識」があったからといって即「改竄」にあたるとは思いません。
学問の世界では、資料や文献のの記述変更の認識があったら、即改竄でしょう。
>「善意」や「親切
>心」、または「認識の甘さ」からそういうことをする場合もあるわけで、「改竄」という言葉が、現在は、
>悪いイメージで使用されるのが普通ですから、やはり「悪意」というものの立証が必要と思います。
少なくとも「善意」、「親切心」、「認識の甘さ」から資料や文献のの記述変更を
行った場合でも「改竄」になります。
# 北の狼さんは藤村新一氏の事をご存じですか?
# 藤村新一氏は、自身が石器の捏造を行い、石器の捏造が発覚したために、
#かかわった全ての発掘に対して信頼性が崩壊しました。
# 藤村新一氏の「善意」、「親切心」、「認識の甘さ」を理由に彼を弁護する人は、
#ひょっとしたらいるかも知れませんが、「善意」、「親切心」、「認識の甘さ」を理由に
#「捏造」を否定する人はいません。
# 田中正明氏の「改竄」も同じ事です。
今回のまとめだと、「書き加え」=「捏造」ということですが、
この一連の投稿の最初から、岡田さんが「書き加え」はすべて「うっかりミス」だと
主張されているわけではないでしょう?岡田さんの最初の投稿(確か3月5日?)
での主張では、そうはなっていなかったと思われます。その投稿の内容を
私流に翻訳すると、(これは改竄ではないですよ)
田中氏の「書き加え・書き換え」を仔細に検討してみると、どうも
でたらめに「書き加え・書き換え」が行われたというよりも、ある意図を
もって行われているような印象を受ける。すなわち、南京で大虐殺が無かった
という主張に有利になるような印象を与えるように、「書き換え・書き加え」が
行われているようだ。従って、私は、このことを一つの証拠として、
田中氏は、自分の主張に有利になるように、松井大将の日記の一部を
「書き換え」たり、「書き加え」たのではないかと推測する。
ということですよね?これは、つまり、「改竄・捏造」には
「意図性」を示す証拠が必要だ、ということに(たぶん無意識のうちに)
気づいていたということですね?
下の日付を間違えました。正しくは、
3月15日(木)01時29分12秒の岡田さんの投稿のことです。
このミスは、しつこいようですが、「うっかりミス」です。
以下のように、”「うっかりミス」だ”を「うっかりミス」ではありえない”
に訂正してください。大変失礼しました。
_____________________________
今回のまとめだと、「書き加え」=「捏造」ということですが、
この一連の投稿の最初から、岡田さんが「書き加え」はすべて「うっかりミス」
ではありえないと主張されているわけではないでしょう?
___________________________
「うっかり転記ミス」でなく、「記述変更の認識」がある場合には「悪意」の存在が推定され「改竄」と呼ばれます。もちろん推定ですので記述変更をした者が「悪意」がなかったことを立証することは可能です。
旨の一般論を私が述べた事に対し、島流し さんは、以下の御質問をされました。
>浅見さんによると、「無かった」ということを「立証」しなければならない
>そうですが、どうやってそれをやればいいのでしょう。どういう
>証拠がでてくれば、「無かった」と「立証」したことになるのでしょうか。
***
あのですね。それは記述変更をした本人しか知らない特殊事情でしょう。そんなの私に聞くのがおかしいのではありませんか?
ただ、岡田さんの御投稿・[改竄者 田中正明 3/4] 投稿日: 3月15日(木)01時29分12秒 を見る限りにおいて「記述変更」の程度や田中氏の立場から、松尾さんのHPでの田中氏の弁明は立証たりえませんね。
もっと記述変更の度合いが低くてしかも、南京事件に執着の無い戦史のシロウトの骨董品コレクターが、たまたま「松井大将日記」を入手してそれを現代語訳して自費出版したというのであれば、あの弁明でも悪意がなかったとの立証となるでしょうが、記述変更の程度や田中正明氏の立場からは、あれでは悪意のなかったことの立証にはならないでしょう。
浅見さん、わざわざお答えいただきありがとうございます。
私は、「立証」という言葉がもっと強い意味で使われていたのか
と思っていましたので、あのような質問になりました。以下は、
私の理解ですが、誤解がありましたら、ご指摘ください。
私の理解によると、浅見さんのお使いになった「立証」というのは、
絶対的なものではなく、ケースごとに納得のいく説明が与えられた
場合に成り立つものだということですね。そうすると、どのような
場合に、どのような説明が与えられれば納得するのか、という基準は
人によって違っていいということになると理解しました。浅見さんには、
浅見さんの基準があってもいいし、私には私の基準があっていいという
ことで、ある意味、安心いたしました。
南京事件が有った、無かったと言うことでは無くて、田中氏を改ざん者とするレッテルを貼る事でしか、攻撃材料が無いわけですから・・・岡田さんは岡田さんの考えがありますから。それで良いんじゃないですか?
田中氏は改ざん者だ→著書は信用出来ない→南京事件は有った。
というお笑いじゃないですが、バカボンのパパの3段論法なんて今時、誰も聞きませんから。
正直言って、このホームページ製作者である私を説得できない限り、田中氏の論文は掲載し続けます。岡田さんがご満足して頂いてそれで良いんじゃないですかねぇ(笑)
今時の若者だってバカじゃないですから。少なくとも納得出来る論法では無いし、第3者だって笑いますから。私の仕事場でココの掲示文を読んで笑ってました。
皆さん、程ほどに力を抜いて・・・