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【映画】和泉聖治「相棒・劇場版」(丸の内TOEI)

  あれは確か2004年……イラク戦線で3名の日本人が人質になった時、マスコミの論調は日本人を救えというものではなく、無責任・自業自得というものだった。避難勧告を無視して居残った者に同情の余地なし、というわけで、その扱いは下手をすると犯罪者なみのようだったと記憶している。当時他の国でも同じように囚われの身となった者はいたはずだが、日本ほど捕虜となった同胞が無事に帰ってきたことに対して非情に徹した国も珍しいだろう。そしてしばらく経って、ミャンマーで日本人カメラマンが非業の死を遂げるに至ったが、こちらに対しては自業自得という声はあまり聞かれなかった。なるほど、日本において究極の自己責任は死を意味する。年間自殺者三万人というかなり度を超えた状況も、納得がいくというものである。「自己責任」を至上のものとする社会では、人はボランティアやジャーナリズムに身を投じることもなく、皆部屋に引きこもって、ただ「私は人には迷惑かけていないはずだ」と呪文のように繰り返すしかあるまい。
 TVドラマ「相棒」は、ミステリ愛好家の知人達に薦められて見事にはまってしまった作品だが、ミステリ慣れした人間をもうならせるどんでん返しと、日本の法制度に真っ向から疑問符を突きつける潔さが魅力の作品だ。死刑執行を巡る悲劇の連鎖を描いたシーズン2第15〜16話、被害者遺族への犯人隠蔽を描いたシーズン3第11話、そして裁判官制度の問題点を告発した近作に至るまで、その批判精神は見事に貫かれている。そしてファン待望の映画化、このシリーズ最大の話題作で批判の対象となるのは、政府でも企業でもなく日本国民そのものなのである。
 物語の導入部近く、水谷豊演じる右京の元上司、岸辺一徳演じる小野田官房室長は言う「人間、忘れることも必要じゃないかね」。そしてラスト近く、真犯人は叫ぶ「忘れるなんてこと、私は絶対、そんなこと許さない!」
 良質なミステリの根幹にあるテーマ、というよりミステリの魂とでもいうべきものは、まさにこの問いかけ、この押し問答にある。人が殺され、それを他者が簡単に忘れることができるのなら、どうして殺人者を捕まえる必要があるのか。一人の人間が命を奪われたことに対し、身を守り損ねた、自業自得だと済ませてしまえるのなら、犯人捜しに知恵を絞る必要などどこにある? その意味は死者の復讐にあるわけでも、知的好奇心の満足にあるわけでもない。殺された者を忘れたりはしないという人間としての意思表示にこそあるはずなのだ。
 レギュラー陣総出演に加えて、大臣、弁護士、記者などのサブレギュラー陣まで登場し、かつ東京マラソンや処刑サイト、チェスの見立てなどさまざまな要素を盛り込んだ結果 、容疑者が少なすぎて犯人の意外性という点ではシリーズの2時間バージョンと比べてもやや弱いという印象があるが、それでも近年まれに見る邦画の傑作には違いない。殺人ミステリの根幹にあるスピリットが感じられるからだ。人気ドラマの映画化だけあって、今のところ連日満員のようだが、サイトを検索してみると意外と「偽善的なプロパガンダ」という批判も多く見かける。なるほど、そうかも知れない。それでも今後もより骨太の、メッセージ性の強い脚本が続くことを楽しみにしている。社会を批判する作品を偽善的と一方的に片付けられるほど、今の世の中は立派なものではないと思うからである。


【映画】パーヴェル・ルンギン「ラフマニノフ」(銀座テアトルシネマ)

 芸術家の生涯は、それが音楽家であっても画家であっても、比較的映画化しやすい主題なのだと言ってしまえば確かにそうかも知れません。政治家はその主義・思想がどうしても全面 に出てしまう分やりにくいと思うし、普通の会社員ではその生涯を見応えのある一本の映画にまとめるのは難しそうですし。その点芸術家は視覚・聴覚に訴える物が既に用意されている分、物語を盛り上げる素材には事欠かないでしょう。
 最近では「真珠の耳飾りの少女」フェルメール「レンブラントの夜警」レンブラントなどの佳作がありましたが、モーツァルトを取り上げた「アマデウス」を筆頭に、クラシック音楽家を取り上げた名作も枚挙にいとまがありません。古くは「未完成交響楽」シューベルトあたりに始まり、ケン・ラッセルの「悲愴」チャイコフスキー「マーラー」などなど。余計なオリジナル・サウンドトラックなんかなくても、代表作の聴かせどころを流せばそれで十分、であります。
 ラフマニノフは「ピアノ協奏曲第2番」「交響曲第2番」などいかにも映画音楽にぴったりなロマンチックなメロディーの曲が多いので、その意味ではやはり興味をそそられて観に行ったわけですが、96分という上映時間は妙に短いというか、あちこちカットしすぎて少々収まりが悪いような印象がありました。あらすじだけ追っているとどうしてもラストのインパクトが弱いように感じられましたね。ロシア革命とかいろいろあったけど結局のところ何人かの女性に支えられてなんとかやってきたのね、この色男さんは…みたいな話に見えかねないかも。
 作曲をやめて創作に専念するよう師匠に強要されて反発し外の世界へ飛び出したラフマニノフは、亡命先のアメリカで演奏旅行に忙殺され作曲が思うように進まず、ピアノを始めたばかりの十歳の娘に「楽譜通 りに弾けばいいんだ」と怒鳴ってしまい自己嫌悪に陥ったりします。そういえばラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」を取り上げたコミック「のだめカンタービレ」も、主人公ののだめはピアノを自己流に弾くたびに「作曲するな」とたしなめられてへそを曲げるのですが、彼女むしろ作曲をやらせてあげた方がいいように思うんですけどね。クラシックに対する不満があるとすれば皆昔の作曲家の作品をなぞるばっかりで新作発表が殆どないことなんだな。フルオーケストラの音楽なんて普通 の人は映画音楽くらいしか新作を耳にしないように思えるし。現代音楽では既に交響曲の世界とか死んだことになっているようですが、それも変な話だよなあ。


【映画】マット・リーブス「クローバーフィールド」(日劇3)

 コード名は「クローバーフィールド」なんでそんな名前がついているんだろう。クローバーなんか何の関係があるんだか。というわけで題名からは何も印象が浮かばないので、思わずチェック漏れしていた本作、知人に勧められてやっとこさ観に行きました。既に三月から公開されていたということで、現在はレイトショーのみ。パンフレットも売り切れ状態でした。
 内容はまあ言ってみれば「怪獣映画」そのものなんですが、それを被害に遭った若者が家庭用ビデオに撮っていた映像だけで見せてしまう、というのがある意味新鮮。もちろんこの手法は「ブレア・ウイッチ・プロジェクト」で既におなじみのものではあるのですが、モノが怪獣というだけに妙に迫力があって意外と良かったりします。
 SFXの手法自体は、実は一昔前のハリウッド版「ゴジラ」とそれほど変わるわけではないし、その意味ではクリーチャーの造形も今ひとつ。ストーリー的には「グエムル〜漢江の怪物」という先行作品もあるので、会社員とその仲間達の恋愛模様という背景もそれほど深みを感じさせるには至らない。至らないんですが、それでもやはり、「9.11」を経た後の作品ならではの凄みがあります。巨大生物に襲われる恐怖を徹底して一個人の視点から描いているという点で、ある意味日本の怪獣映画が昔目指していたものを既に横取りされてしまったようにも思えます。ミサイルから逃げ回り、お魚を餌におびき寄せられてしまうハリウッド版ゴジラを笑うことはできても、いかなる攻撃を受けてもびくともせずに、容赦なく襲いかかるこの作品の「破壊者」を笑うことはできそうもありません。これはやはり今一度、仰ぎ見るような巨大生物映画を日本でも作ってもらわなければ。まあゴジラでもガメラでも新怪獣でもなんでもいいんですが、ゴジラだって放射能を吐きまくるという点一つをとっても、リアルに一個人の視点で描くことでかなり恐怖感を演出できるんじゃないかと。何しろ近付いた者は運良くその場での死を免れても、被爆して後々まで苦しむことになるんですから。自ら移動するチェルノブイリ級の災厄、という形で描くこともできるわけで、それこそ原点回帰だと思うんですけどね。


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