【映画】庵野秀明「シン・ヱヴァンゲリヲン劇場版」
1994年のTV放映以来、そして2007年の「劇場版・新世紀ヱヴァンゲリヲン・序」以来、長く続いた物語の完結編です。完結編と言っても、この物語は計3回、異なるエンディングを迎えています。最終話で、それまで張り巡らせていた筈の伏線を全て放り出して、登場人物達がいきなり「おめでとう」と拍手をして終わるTV版、そして怒濤のごとく自衛隊にネルフ本部が潰され、唐突に人類補完計画が強行されたと思いきや、いきなり全てがリセットされ崩れ落ち、気が付いたらシンジがアスカの首を締めて「気持ち悪い」と罵倒されて終わる劇場版。前2回のエンディングは実際のところいずれも「なんだか良く分からない」ものでした。何だか良く分からないけれど何か言いたくなる……そんな気持ちにさせられた方々は世の中に一杯いて、お陰で「エヴァンゲリオン」と言えば、ゲームの攻略本ならぬ数々の解説本や評論が世に溢れ、私も当時色々感化されて、「不安の時代」「殺意の時代」といったエッセイをホームページに載せたりしました。いやいや、今読み返してみて、あらためて当時何かと他の映像・漫画作品や実際に起こった事件に重ね合わせて色々言いたくなった気持ちを思い出した次第です。
さて、三度目の正直ならぬこれぞ決定版とされる今回の「シン・ヱヴァンゲリヲン」完結編です。もうこれで終わり、卒業です、との宣言と受け止めて、さあ観てみた結果……正直「なるほど!」と思う部分と、「何じゃこりゃ?」と思う部分が半分なのであります。3つのエンディングのうちどれかを選べと言ったら間違いなくこれなのでしょうが、色々と新しい試みを織り込んでかつうまくまとめた、と認めながらも、それでもどうにも納得いかない部分がしこりのように残る話ではありました。
確かに「なるほど!」と膝を叩きたくなる締め括りではあるのです。
脳天気に全て投げ出したTV版と、殺伐とした救いのない劇場版をとりあえずリセットして、新しい劇場版四部作をどうまとめるのか……TV版の冒頭5話分をとりあえずそのまま継承した「序」、アスカ登場からTV版19話「男の戦い」までを大胆に切り詰めてヒロイズムを前面に押し出した「破」、一転して14年後に目覚めたシンジが、ネルフとヴィレとの対立に巻き込まれつつカヲルと出会い、さらに追い詰められていく「Q」と観てきた上で、これではまた不毛で意味不明なラストは避けられないのでは、と危惧していました。その意味では、冒頭でのパリ市街の復元シーンや、その後に続くニアサードインパクトの避難民村における成長した他の登場人物との再会などは、ある意味予想外の展開でした。そしてこの守るべき村があるという設定が、登場人物達の行動の具体的な動機付けへと繋がっていくことで、物語が再び動き始めるのです。前作では、個々の登場人物達がどこか抽象的な理念と他者への感情にとらわれていた感がありましたが、今作ではそのあたりがより具体的なものに掘り下げられていて、あらゆる生物の種の保存のために動いた加持リョウジにしても、そのリョウジとの子を村に残している葛城ミサトにしても、人との接触を経験し想いを残したまま消滅するレイ(仮)にしても、前作以上に深みのある人間として描かれていると思います。前作の中に息苦しく充満していた殺意や怒りの感情はそのままに、守りたい物を守るために何かをせずにはいられない感情をさりげなく潜り込ませることで、それぞれの登場人物達が、本来の自分を維持しつつ違った一面を見せてくれたこと、それは確かにこのシリーズを見続けてきた者にとって納得のいく展開でした。「序」から「破」まで2年、「破」から「Q」まで3年だったのに比べ、「Q」から「シン」までは9年も経ってしまい、楽しみにしていたオチが観られずに亡くなった方も意外に多いのではないかと思うのですが、その間に施された物語の組立直しと、物語の流れを継承しつつ軟着陸させた手腕にはある意味頭が下がります。
一方で、「何じゃこりゃ?」と思ってしまうのも確かなのです。
二十年前の前作では、シンジ君の一人きりの問い掛けの連続が全編に及んでいましたが、今回はさすがにまたシンジ君のひとり語りというわけにもいかず、なんとゲンドウ君のひとり語り。ヒロインも今シリーズから初参加のマリさんに乗っ取られた感がありますが、前作よりさらに女性陣が強くなったのと、料理をしたりご飯を食べたりのシーンが増えたのは、やはり庵野先生がご結婚されたせいかしらと思ったりしたのですが、まあそれはそれとして……。
そもそも、「エヴァンゲリオン」の魅力は、実は従来のアニメーションにはないリアリティのある描写と設定にありました。マジンガーZのようなロボットでもなく、ウルトラマンのような超人でもなく、巨大な人造人間の身体の中に挿入され、緩衝剤としてのLCL溶液に包まれながら、電源を引きずって戦闘に参加する、その生々しくも哀しい感覚がある意味新鮮だったのです。使徒と名付けられた敵は、異星からの侵略者でもなく人間の造り出した産物でもなく、未知のものでありながら人類に近しい物、という設定も新鮮でしたし、十代の子供が操縦者となってしまうことが、従来のロボットアニメとは違って必然のこととなってしまうことの設定の妙と、それ故の悲劇性も素晴らしく練られたものでした。
しかしその主人公であるシンジ君の「なりたかった世界」は、TV版では学校で遅刻しそうになってがっちゃんことか、今作では背広着て恋人とダッシュとか、ある意味リアリティがあるようでないのであります。
いやいや本当に、そんなものが望みなの?
幼少期に一人放り出され、立派にチェロを弾いても誰も聞いてくれない、命を賭けて戦闘に赴いても誰も認めてくれない、かけがえがないと思っていた友人達が傷付けられ、命を失う様を目の当たりにしてもどうすることもできない……そういった辛い経験を重ねてしまった少年と、そんなしょうもない「理想の未来」とやらがどうにも結びつかないのです。なまじリアリティのある設定や強制された戦いの生々しさに比べ、オチに用意されている「幸せな」シチュエーションは逆にあまりにも作り物めいていて、無難で切迫感が感じられない……。おそらくそこがこの作品の一番のウィークポイントになってしまっているように思うのです。コロナ禍の昨今においては、普通の生活そのものがそのまま憧れや希望の象徴になってしまった感があるけれど、それだけに、このエンディングで果たして良いのだろうかという、疑いというよりは違和感を感じたのも確かです。
「エヴァンゲリオン」と初めて出会った時、機械仕掛けでありながら傷付けられれば大量の血を流す、その巨大生物としてのリアルな描写、生き物であるからこそこちらに向かって迫ってくる恐ろしさに戦慄を覚えた……。報われない死闘の中で「逃げちゃ駄目だ」「私には他に何もない」とつぶやき、涙を浮かべながらあがく少年少女の運命に心を痛めていた……。少なくとも私にとっては、食パンを加えて走る少女や、ネクタイを締めて駅の階段を駆け下りる楽しげなサラリーマンよりも、血しぶきと絶叫に満ちた世界の方が余程心に迫る「リアル」であり、共感の対象だった……この長い物語を振り返ってみて、あらためてそう思う。それが自分の正直な感想です。
【漫画】板垣巴留「BEASTERS」
宮崎駿のTVアニメシリーズ「名探偵ホームズ」は、登場人物が全て犬というアニメーションである。宮崎駿自身は、全てを犬化することに反対で、せめてハドソン夫人は人間で、みたいなことを意図していたらしいが、結局全てのキャラクターは犬として描かれた。勿論イタリア側の要請あっての無茶ぶりではあったが、結果として作品は、キャラクターが人間だろうが動物だろうが構わないくらいの傑作となった。
ミッキーマウスも、トムとジェリーも、本物の猫や鼠を描いているわけではない。ミッキーマウスは犬のブルートを飼っているし、トムもジェリーに限らず鼠を食い荒らすシーンがあるわけではない。彼らは別に動物として描かれているわけではないし、だからこそ、宮崎駿も安直な動物の擬人化などやりたくはなかったろうとは思うわけだ。
動物を擬人化するマンガやアニメは別に珍しくない。彼らは単なるキャラクターで、それこそぬいぐるみを着ている人間の演者に置き換えても何ら差し代わりがないからだ。動物の格好を模しているだけで、動物の本質を備えている訳ではない。
それが普通だと思っている中で登場してきた作品が「BEASTERS」である。主人公の狼の男の子は、か弱くもたくましく生きる兎の女の子に恋している。これもどう見ても擬人化された動物の物語。ところが、決定的に違うのは、この中に登場する動物が全て肉食獣は肉食獣、草食獣は草食獣としての性質と本能を兼ね備えていることだ。彼らは肉食や草食といった自らの本能を抑え込んで共同体を生きている。主人公も狼という獣性を無理矢理に抑えつけながら、草食動物と共存しようと悪戦苦闘するし、仲間の肉食獣達の中には、本能に負けて友達だった草食動物を食べてしまった者もいる。
これは何かのメタファーか? 人種? 宗教? 麻薬? なるほど、肉食と草食の境界線を守ろうとする者、それを飛び越えようとする者は、人種差別に徹しようとする者とそれを撤廃しようとする者の対立に喩えられそうだし、肉を断とうとして身もだえする姿は、薬物に依存してそれを断ち切ろうとして断ち切れない者の姿になぞられることもできそうだ。そこに人間社会のあらゆる矛盾や対立を見ることもできる。でも、何かそれ以上に本質的なものがこの物語の設定の中にあるような気がするのだ。
肉食獣と草食獣は相容れないものと我々自身が思っていたりする。でも、実際には哺乳類の中でも雑食性の物が多数いるわけだし、例えばパンダなどは、肉食獣としての特性を備えた熊の仲間がやむを得ず竹を主食にしてしまった例でもある。そして何より我々人間自身が、元々樹上で生活する果物食だった類人猿なのに、肉の味を覚え、今では世界中の野生動物をはるかに上回る家畜が、人間に食べられるために飼育されているような有様なのである。「約束のネヴァーランド」の鬼達は、人間を食べないと知性を維持できなかった。しかし、人間は肉を食べなくても生きていられるのに、肉食動物以上に大量の「肉」を食しているのだ。肉食動物と草食動物の境界線は、実は曖昧なものなのではないか……そう考えてこの物語を見ると、あらためて色々なことに気付かされるのである。
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