【映画】マット・リーヴス「THE BATMAN」
映画の「バットマン」といえば、ティム・バートン監督・マイケル・キートン主役の2作「バットマン」「バットマン・リターンズ」と、クリストファー・ノーラン監督・クリスチャン・ベイル主役の3部作「バットマン・ビギンズ」「ダークナイト」「ダークナイト・ライジング」があります。それぞれヒットしたにも関わらず、「やはり暗すぎるのでもっと明るくした方が……」とか製作会社が言い出して、原色系のきらびやかなジョエル・シューマーカー版やヒーロー勢揃いジャスティス・リーグ展開のザック・スナイダー版が後に続きましたが……結局バットマンの世界は漆黒の夜の闇が似合うというわけで、2019年の「ジョーカー」に続くようなダークなタッチで、このマット・リーヴス監督作が登場した訳です。
再選を狙う市長が殺害され、その現場には奇妙な謎のメッセージがバットマン宛に残されていた。警察本部長に逆らってゴードン警部はバットマンを現場に連れ込むが、その後に殺されたのはその警察本部長だった。ゴッサム・シティを滑る警察や検察の上層部の不正を暴くことを宣言するリドラーは、ついにはゴッサムの経済を牛耳るウエイン財閥を標的にするに至る……。
実際のところ、本作の主人公のブルース・ウェインは、ホアキン・フェニックスの演じた「ジョーカー」を継承しているような印象さえ受けます。怒りに駆られると我を失い、それはもう力一杯相手を殴る、殴る……スマートに小道具を使いこなしてきた今までの先輩達と違って、ロバート・パティンソン演じるバットマンは、純粋であるが故に、どこか武器を使うときはむしろぎこちなく(飛び降りる時なんか、まさに「大丈夫?」てな感じで……)、彼のパワーはむしろ力任せに相手を殴りつけ、うなり声を上げてガラス窓を叩き、怒鳴り声を上げる時に発揮されるのです。そしてマスクを外すと、目の周りには黒く墨が塗られているという……実際のところ、ティム・バートン版でもクリストファー・ノーラン版でも、目を際立たせるためにマスクをしている時は目の周りが黒く塗られていたのですが、それはあくまで視覚効果を狙った物で、マスクを外すと普通の顔になっていたのだけれど、自ら顔を塗りたくる「ダークナイト」や「ジョーカー」のジョーカーを経て、リアルさを追求した本作ではブルース・ウェイン自身が目の周りを自ら黒く塗って画面に登場するので、その表情はまさに「ジョーカー」に似たどこか危ない雰囲気が漂っています。
三時間の長丁場に加え、バットマンことブルース・ウェインの乗るバイクは普通の黒いバイクだし、バートン版のバット・モービルやノーラン版のバット・ポッドのような考え抜かれたデザインとは無縁だし、リドラーもペンギンもキャット・ウーマンも言ってみれば普通の人に描かれているしで、ヒーロー物やアクション物を期待する観客にはなかなか魅力に乏しいかも知れない本作ですが、一方で以前の作品ではどこかコミカルで、ノーラン版では敢えて外されたリドラーやペンギンを、実在しうるタイプの犯罪者として選んだマット・リーヴスのチャレンジ精神には感服した次第です。1960年代のバットマンの映画版も昔観たことがあるのですが、ジョーカーもペンギンもリドラーもキャット・ウーマンも全てコミカルな敵キャラとして割り切って描かれていました。ティム・バートンはそれをジャック・ニコルソンやダニー・デビートといった名優を使って存在感のある人間として蘇らせましたが、その描き方はやはりどこかフリークス的で異形的、一般の人間とは線が引かれた存在のままでした。ノーラン版はそれをさらに実在しうる人間として描き、トッド・フィリップスの「ジョーカー」ではまさに今すぐ近くにいる、虐げられた普通の人間として扱われるまでに至りました。本作のリドラーも、一般人と殆ど変わらない、むしろ平凡といってもいいような風貌で登場するのです。薬品で変色したわけでも、奇形として生まれてきたわけでもなく、少し口調に問題がある程度の普通の一般人として。狂気も不条理も、まさに一般にいる普通の人々に当たり前に内在するものとして描かれるようになっている気がします。
もともとの原作が「ディテクティヴ・コミック」すなわち探偵物語だったことを踏まえて、今回の映画は探偵を描くノワール映画にする、とリーヴス監督は言っていますが、それなら登場人物の誰かが「意外な犯人」となるのだろうなと思ったのですが……。この映画のスタイルなら、肝心の「陰謀」を会話だけに済ませないで、もう少し「不可思議な謎」と「伏線のある、合理的な解決」があったらより良かったなと思うわけです。その方が、裏切られ苦悩する主人公により共感できたかも。
さて、「ダークナイト」の後半では、ジョーカーは一般人の集団と囚人の集団に、互いを爆死させるボタンを渡し互いが互いを疑心暗視に陥ってボタンを押すよう仕向ける場面があります。そこで描かれるのは「人間の信頼」だった訳ですが、「ジョーカー」では主人公アーサーことジョーカーの登場自体が暴動を招き、本作ではついにバットマンはリドラーに共鳴し銃を手にした一般人達と対峙することになります。「ダークナイト」でジョーカーが最後に宣言した未来の姿が、この作品の終わりでは実現してしまっているとも言えます。現実の戦争の光景を毎日のように見せられてしまっている我々にとっては、「人間への信頼」そのものがどこか薄れ始めていて、もう既に善意でつながる予定調和の世界に、現実味を感じなくなっているのかも知れません。。
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