9月


【小説】グレッグ・イーガン「祈りの海」

 久々に読みごたえのある短編集でした。イーガンには代表作と呼ばれる長編が何冊か訳されていて、文字通 り夜空の星が消えていく「宇宙消失」や、不老不死の実現を目指す「順列都市」が有名なのですが、正直なところかなり大見得を切った設定のわりにはドラマの盛り上がりに欠けるような印象があって、あまり「夢中に」なって読んだという訳でもなかったのです。今回のSF大会で短編「祈りの海」第32回星雲賞で短編部門に選ばれたと聞いて、とりあえずは読んでおこうかな、ときわめてミーハーな気持ちで本を買ったのでした。
 11からなる短編それぞれの量子力学や仮想現実を駆使した設定は、先の長編に通じるとはいえ、むしろ設定を明確にして物語を絞っている分、分かりやすいし親しみやすい。しかも極めて練られているので、それぞれの作品に純粋な驚きがあります。生まれてからずっと自分の精神が他の見知らぬ 人々へ乗り移ってしまう男の苦悩を描いた「貸金庫」、バックアップ用のメモリに相当する「宝石」を脳に仕込まれているが故に自己の消滅を恐れる「人格」をテーマにした「ぼくになることを」、胎児を環境から保護する「バリア」が、脳と肉体の性を完全に同一させることによって、同性愛差別 が助長される世界を描く「繭」、未来から過去へ送られてくる日記を巡る命題を投げ掛けた「百光年ダイアリー」、モニター上のイミテーションでしかない「妻」を誘拐され、身代金を要求される主人公を描く「誘拐」等々、非常にシンプルながら印象深い作品の数々。あらためてイーガンは長編作家というよりも短編作家なのだなと納得した次第であります。
 解説の瀬名秀明氏も同じ意見らしく、「『宇宙消失』や『順列都市』は、イーガンの資質が十分に発揮されておらず、それ以前に長編小説としての基本的な作法に欠け、残念ながら手放しで誉められる出来ではなかったように思う。なぜか。個々のアイデアが並列的、羅列的に用いられているからだ」と手厳しい。その点本書に関しては「おそらくここ数年で刊行されたあらゆるジャンルの本の中でも、ベスト級の賞賛に値する個人短編集だろう」 と絶賛しています。もっとも瀬名氏は、後期の「イェユーカ」「祈りの海」の方をよりベストであるとし、シチュエーションや奇想そのもので読ませようとする初期作品よりも上としているようですが、私自身は上記の初期作品もかなりの出来だと思うし、決して後期作品より劣るとも思えないのですけど。
 表題作の「祈りの海」は、ヒューゴー賞・ローカス賞を受賞した名作。惑星コブナントに移住した人類は、聖ベアトリスを信仰し、海に浸かることで神秘体験を得ることができ、また互いの性器を交換することで容易に性転換ができるようになっていた……。舞台設定と、物語の結末自体はじつはそれほど「目新しい」発想ではないように思うのですが、信仰と科学に振り回される主人公の言葉はなかなか含蓄があって、この作品の評価を高めているのは確かなようです。「あなたの人生を生きる価値のあるものにしているなにもかもが……偽りであり、堕落であり、無意味であるという可能性に面 と向かう気構えがありさえすれば……あなたは決して、その奴隷になることはない!」


【映画】宮崎駿「千と千尋の神隠し」

 「A.I.」「猿の惑星」「ジュラシックパーク3」と大作の続いた今年の夏でも、イチ押しと評判の高いのがこの宮崎さんの新作であります。前作の「もののけ姫」は90億円の大ヒットでしたが、今一つ納得がいかなかったので、その分逆に期待していた作品でもあります。
 実際、今回の作品はとてもテンポが良く、そして何より絵的な面白さがあります。アニメーションに限らず、映像はまず目で見て驚きがあるものでなくては……と常々思っていまして、極端な話、多少脚本がまずくても、見たこともない映像を見せてくれればそれで結構私的には「通 し!」だったりして。その点、「千と千尋……」の絵的なワクワク感はとても上質なもの。物語が始まってすぐに異世界へと舞台は移り、おしら様だのオオトリ様だの、なんともキュートな神々がものも言わずにぞろぞろと次から次へと登場してきます。今までの集大成的な作品という意味合いからか、「ルパン三世・死の翼アルバトロス」「ラピュタ」の名脇役のオジサンが釜爺という自在に伸びる六本の腕を持つ役で登場しているし、「トトロ」に出てくるマックロクロスケことススワタリも炭の運び屋としていい味出してるし、物語後半で登場する白い龍の顔は「もののけ姫」の犬神モロにそっくり。
  視覚イメージという点では今までの作品の中でも断トツだと思います。「もののけ姫」では地面 をはい回るしかなかった登場人物達も、今回は千尋やハク、そして湯婆婆までもが空を滑空します。猥雑としたまるで遊廓風の湯屋「油屋」は壁紙に至るまでびっしりと手抜かりなく描き込まれているし、その一方で、物語後半の海の上を走る二両列車の風景はCG処理ながら「銀河鉄道」を思わせる静謐さが印象に残ります。
 これは文字通りキャロルの「不思議の国のアリス」宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を合わせたようなテイスト。ありのままの不条理な世界をそのまま受け止める主人公の子供、という設定は、洋の東西を問わず普遍的な物だと思われます。もっとも「千と千尋」は、「アリス」や「銀河鉄道」よりももっと柔らかいトーンで描かれているような気もします。アリスは不思議の国の住人達と殆どまともにコミュニケーションがとれずにいたし、「銀河鉄道」には友人カンパネルラの死という悲劇が語られているわけで……。
 見終わって、ある意味とても楽しかったけれど、随分あっさりと終わったなという印象も受けたのは確かです。
 いつからか、宮崎アニメは「傷付き、痛みが残る」というシチュエーションを敢えて避けるようになったような気がします。「カリオストロの城」ではルパンは銃弾に倒れるし、「ナウシカ」では冒頭に少女の死が描かれ、「ラピュタ」ではヒロインの僕となったロボットが空からの砲撃に倒れ……そしてそれらの出来事は登場人物達に陰影を付け、その喪失感が逆に反動となって、それ以降の物語の一つの求心力となっていくのですが、典型的な善対悪という設定に限界を感じたのか、「となりのトトロ」「魔女の宅急便」以降は非常に予定調和的な、いわば悪役のない世界しか描かれなくなりました。それと同時に興行収入は倍々に膨れ上がっていったわけですけど。
 物語のラスト、主人公はある意味あっさりと湯屋を離れ、現実世界に戻ってくるわけですが、そこに何かもう少し余韻があっても良いような気もしました。別 にあんな平気で盗み食いしてしまうしょうもない両親の元になんか帰らなくても(そうでなくても記憶がないから、反省もしてないし……)、なんか湯屋で働いていたほうが楽しそうだし(さんざっぱら湯婆婆とやらが脅したといっても、仕事自体はあんまし辛そうに見えなかったりして……)。
 表情のないお面をかぶった黒ずくめの「カオナシ」も秀逸なキャラクターで、欲望と孤独の感情が肥大化したある意味ストーカーみたいな奴なのですが、これも物語中盤暴走しかけるのだけれど、結局は大人しくなって糸を紡ぐ手伝いなんかしちゃったりして、「お前それでいいんか?」みたいな感じ。一番現実味のある存在なんですけどね。表情がなくて、どもりで、そのくせしつこくて、大人しい時は大人しいけどキレちゃうと手が付けられない、なんてそんじょそこらにいそうじゃないですか。
 
 ユリイカ臨時増刊号「宮崎駿〜千と千尋の神隠しの世界」で、香山リカ氏はこう書いています。
「……すなわち、宮崎アニメが何かにつけて『安心』と言われるのは、暴力シーンや性的なシーンが出てこないからではなくて、〈父の名〉のもとに自らの名前を完全に剥奪し、絶対的に服従させるような〈絶対的他者〉が出てこないからなのである
 湯屋の管理者湯婆婆は、千尋の名を「千」に変え、名を奪うことによって支配すると宣言するのですが、その実少しも彼女を管理することに成功してはいないし、それどころか千尋は湯婆婆がいようがいまいが勝手に振る舞っているように見えます。「八つ裂きにしてやる!」とか威勢のいいことを言う割りにはさほど攻撃的なことはやっていないし。「ナウシカ」のクシャナ、「ラピュタ」のドーラ、「もののけ」のエボシと、老若問わず宮崎作品には男勝りの女性達が活躍するのですが、彼女達は必ずしも勝つこと、相手を押さえつけることに執着はしません。ある意味母子家庭的なムードが舞台を支配していて、訳の分からないコミュニケーション不可能な「他者」はその環の外にいる、というのが基本的な設定になっていることが多いようです。
 手元にある89年発行の「COMIC BOX〜特集ぼくらの手塚治虫先生」には、結構語り草にはなっていますが、宮崎氏へのインタビューが載っていて、その中で手塚作品に対してかなり批判的な意見を述べています。
「『ある街角の物語』で、男女二人のポスターが、空襲の中で軍靴に踏みにじられ散り散りに鳴りながら舞っていくという映像があって、それをみた時に僕は背筋が寒くなって非常に嫌な感じを覚えました。意識的に終末の美を描いて、それで感動させようという手塚治虫の“神の手”を感じました」
 追悼記事の筈なのに徹底して批判する、というのもなかなか自信がないとできない行為だとは思うのですが、その内容に違和感を感じたのも事実です。与えて奪う、というのはある意味悲劇の基本、手塚作品に限らず、死や終末に対しては人は何らかの感情を抱かずにはいられない。事実、「ナウシカ」や「ラピュタ」にもある種「終末の美」とでもいうべきテイストがあったと思うのですが、89年といえば「魔女の宅急便」製作中の頃。意識的に終末や喪失感の描写 を避けるようになった時期とも重なります。この作品以降、ずっと作品の口当たりは良くなり、陶酔感や心地よさは増したものの、余韻が少なくなったと思うのは贅沢でしょうか。「千と千尋」のような作品にそういう「余韻」がどこまで必要なのかは難しいところですけど、例えば「青蛙」や「オオトリ様」のようなキャラクターをもっと動かしてより「楽しい」作品に仕上げることもできただろうし、「ハク」や「カオナシ」のダークな面 をもっと描いても良かったかも知れないし……いずれにしても、もう三十分位伸ばしてでも最後を盛り上げて欲しかった、と思ってしまいました。


【小説】ロバート・J・ソウヤー「さよならダイノサウルス」

 最近のSF小説の中ではかなり人気の高いソウヤー、今まで人に薦められながらも読んでいなかったのだな。コンピューターの一人称で語られる倒叙SFミステリ「ゴールデン・フリース」、精神の複製体が連続殺人を犯す「ターミナル・エクスペリメント」、異星人合同の調査船の冒険譚「スタープレックス」、ヒトゲノムの秘密に挑む「フレームシフト」……解説を読むとどれも結構面 白そう。さすがに目は通しておかねば、と思ってまず手に取ったのが、「恐竜」が出てくるから分かりやすいだろうと思って選んだ本書であります。
 21世紀になって発明されたハンバーガー型タイムマシンは、より過去にさかのぼるほどコストがかからないという理由で、主人公の考古学者が恐竜絶滅の原因を解明するために乗り込むことになる……という出だしからしてなかなか気が利いてますが、白亜紀末期に来てみるとトロエドンにいきなり英語で話しかけられて面 食らうことに……。
 本作の凄いところは、しかしむしろここから先の展開なのでした。かなり説明不足の点も気にはなりますが、その後物語は二転三転して、ついに「何故恐竜は絶滅したか」という命題にSF的な回答が与えられてしまうだけではなく、「何故火星は死の星になったか」「何故時間旅行は可能でなくてはならないのか」という命題にまで答えを出してしまうあたりはなかなかにぶっ飛んでいて、しかも読み終わった後それらがきれいにまとまっていたことにあらためて気付かされるというすぐれものです。
 特に「何故時間旅行は可能でなくてはならないか」という問い掛けとその回答は、唐突でありながら「なるほどそうか!」と読み手にひざを叩かせるだけの力強さがあり、これだけでもっと壮大なドラマが描けそうなほどのアイデアなのでした。ひさびさに読みごたえのある長編SFを読ませて頂きました。
 ちなみにこの小説の原題は「END OF AN ERA」。直訳すれば「時の終わり」というところでしょうか。「さよならダイノサウルス」という日本語タイトルはややファンタジーっぽくて、このハードな内容にはややそぐわない気もするのですが、どんなものでしょう。


【映画】渡辺信一郎「カウボーイ・ビバップ〜天国の扉」

 98年にテレビ放映されたアニメーションの映画版。オリジナル版は、「ルパン三世」のちょっとアダルトな世界をSFで展開したようなテイストで、「エヴァンゲリオン」と並んで90年代の日本のセルアニメーションを代表している作品です。賞金稼ぎの四人組、どこかけだるい主人公のスパイク、整備と料理を担当するその相棒のジェット、コールドスリープで過去の記憶を失った女フェイ、13才にしてハッキングの天才少女エド……このメインキャラクターを中心に、ハードでどこか不条理な重い作品とコミカルでスピーディな軽い作品とが適度にミックス。全26話をDVDで揃えたんだけど、それだけの価値はあります。
 「アニメスタイル」第一号では、「エヴァンゲリオン」の画面は引き算で、「カウボーイ・ビバップ」は足し算でできている、という興味深いコメントが載せられているけれど、その一方で、映画のパンフレットには「ビバップの根底にあるのは引き算の発想だった」というコメントが載っていたりします。これはなかなか対照的だけど、「エヴァ」と「カウボーイ」のスタイルの違いをよく言い表していますね。確かに画面 構成から考えると、「エヴァ」の停止した絵、色のない絵のテクニックは独特のもので、動きや色を抜いて空虚な空間を作ることによって不安感を与えていますが、それに対して「カウボーイ」の画面 は実に濃密に全編に渡って描き込まれているわけです。一方で「エヴァ」のセリフがかなり繰り返しが多く多くのキャラクターが饒舌なのに対し、「カウボーイ」のキャラクター達は余計な事は喋らない。皆が引き際を心得ているという感じで、基本的には互いに干渉しないというある意味オトナの関係を保っています。
 今回の映画版はオリジナル版の第22話と23話の間に位置するエピソードなのだそうですが、テレビシリーズ同様なかなかに練られた脚本です。トラックが爆発しその周辺の者達は脳を冒されるが、いくら調べても患者達の体に異常は見られず、ウィルスでも化学物質でもないその兵器の正体は何か……という謎の提示もいかにもSF的でいいし、全身黒ずくめの凶悪なテロリストであるヴィンセントの描かれ方もいいし、クリスマスでもサマータイムでもなくハロウィンを舞台設定の季節に扱っているのもいい。オープニングのとぼけた会話やエドの中途半端な介入の仕方も、暗くなりかねない物語のバランスをうまく保つことに役立っているし。
 難を言えばやや「巧すぎる」ことかしら。あまりにソツがないと突っ込みにくいものです。落ち着くところへ落ち着く結果 、ややあっさりとした印象になっているような気も……。逆に破綻しまくりの「エヴァ」のノリが懐かしかったりして。


【映画】マーハイジ「シヤドウ・オブ・バンパイア」

 ブラム・ストーカーの小説「ドラキュラ」は、トッド・ブラウニング監督のハリウッド映画「魔人ドラキュラ」(1931年)が大当たりとなり、ドラキュラを演じたベラ・ルゴシを一躍有名にした、ということになっていますが……。この名作とされる「魔人ドラキュラ」、確か中野かどっかで単館ロードショーで観たんだけど、うーん……ちょっと小太りのおじさん、といった感じのベラ・ルゴシは正直言ってそんなに怖くない。女性をつけ狙う黒服の中年ストーカーですよこれは(しゃれじゃないけど……)。おまけに棺桶に寝てるところを杭を打たれてあっさり昇天。あまりに情けない。どうしてそんなにヒットしたんだろう、という印象でした。同じモノクロ・トーキー初期の作品なら「フランケンシュタイン」の方が、まだしも悲哀感があって完成度が高い。
 ただしサイレント時代のモノクロなら、「ノスフェラトウ」(1922)の方が断然印象が深いです。原作者の未亡人の許可が降りなくて「ドラキュラ」という題名が使えず、「ドラキュラ伯爵」を「オルロック伯爵」に変えて、ドイツの表現主義のムルナウが監督、マックス・シュレックという俳優が伯爵を演じていました。これは大学の頃新宿アートシアターあたりで観たんだけと、禿頭に鋭い眼光、鷲鼻に長い爪といったいでたちは、いかにも獣っぽくて確かに「怖い」。サイレント映画だから喋らないのは当たり前なんだけど、それだけに物語の恐怖感は真に迫っていましたね。もはや伯爵というより怪人という容貌で、これでは訪問した青年弁理士は一目見ただけで不動産契約なんか投げ出して逃げてしまいそうだけど。
 さて、今回の「シャドウ・オブ・バンパイア」ですが、ムルナウの映画「ノスフェラトウ」に出演していたシュレックは、なんと本物の吸血鬼だった! というお話。主演女優を餌にして吸血鬼映画の完成を焦るムルナウをジョン・マルコヴィッチが、そして吸血鬼シュレックをウィレム・デフォーが演じています。しかもプロデューサーのアルビン・グラウ役は、ウド・キアーという、アンディー・ウォーホル製作の映画「処女の生き血」で吸血鬼を演じた人。これはホラーながらコメディ色の強い作品で、処女だとだまされて非処女の血を吸ってしまって息も絶え絶えに嘔吐しまくるというちょっと可哀想な吸血鬼でした。
 デフォーのノスフェラトウは、時々本性を現して人前でコウモリをつかみ取りして食らいついてしまったりする一方で、カメラを気にしておとなしくメイキャップを受けちゃったりとかしてなかなかお茶目。原作本を読んで、「何百年も召使いもいなく、弁理士の食事を自分一人で作ったりする伯爵の姿に涙した」と告白する、非常に哀愁漂う存在として描かれています。一方ムルナウは、映画の完成のためなら撮影スタッフや俳優が狙われてもお構いなし、平然とカメラを回す狂気の天才。実在のムルナウは結構優しい人物だったという話もあるくらいだから、こういう風に描いちゃってホントにいいのかしらと心配になってしまいましたが。
 ドラキュラ映画に慣れ親しんだ人には、あちこちにくすぐりもあって、実に楽しめる作品になっているんだけど、ホラーなのかコメディなのか今一つはっきりしなかったのが、あまり話題にならなかった理由かしら。そうでなくてもムルナウのモノクロ・サイレント作品か、せめてそのリメイク「ノスフェラトウ」(1979年) を観てないとピンと来ない要素が多いです。私としては、いっそのことデフォーには底知れぬ 闇を抱いた「常軌を逸した」ノスフェラトウを演じて欲しかったなあ。



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