4月

【映画】リドリー・スコット「ハンニバル」
 「エイリアン」「ブレードランナー」「ブラックレイン」……80年代のリドリー・スコットは、繰り返し違った角度で死に至る「暴力」を描き続けていた。その描写には、人間の腹を破るエイリアンにしろ、人間の顔を潰すレプリカントにしろ、刀で相手の首を切り落とす松田優作にしろ、残酷だがどこかスタイリッシュで、今までまともに目にしたことのない様な「驚き」があった。死体が累積する中何とか最後まで生き残る主人公という構図は、特に「エイリアン」では顕著であるが、時としてその残虐な場面を描きたいからそのためにストーリーがある、とすら思えるほどだ。2000本以上ものCMの演出を手掛けただけに、非常に「絵になるシーン」を大事にする映画監督、という印象がある。
 そのスコットが「羊たちの沈黙」の続編を撮るというので、ある意味これは見逃すわけにはいかないなと思ったのも確か。原作は、前にもコメントしてはいるのだが、ワインや音楽に関する蘊蓄は私も好きなので別に良いけど、それだけだとどうしても普通の教養人としての姿だけがクローズアップしてしまい、底知れぬ闇を抱えた「怪物」としての側面がおろそかになってしまっていないかと感じていたのだ。しかし、絵的にはパッツイ殺害のシーンや最後の晩餐のシーンなど、映像化が楽しみな所も多いので、映画としてはうまくまとまる可能性は高いと思われた。
 しょっぱなから顔の潰れたゲーリー・オールドマン演じるメイスンが登場し、公園に散らばる鳩の群がレクターの顔と重なるオープニング。そしてそれに続くクラリスと麻薬売人達との銃撃戦。うーん、スコット先生、ハリウッド的に出だしから気合い入れてますね。個人的には、宇宙の闇のシーンを引っ張り緊張感を徐々に高めていった「エイリアン」や、都市の遠景とレプリカントの眼球とが重なる「ブレードランナー」のオープニングの様な「怖さ」の演出を期待したんだけど。これはまあ、原作通りではあるのですが。
 一番の見どころはやはり中盤のフィレンツェ編。最新型の宇宙貨物船の中にギーガー的「腐食の美学」を導入し、馴染みのある筈の大阪の街をどこか異邦の地に見せてしまうあの独特の演出力はここでも冴えていて、古都フィレンツェのダークな部分、殺人が行われても不思議ではないような危なげな雰囲気がうまく描かれていて、思わず見とれてしまう。広場にたたずむコートを羽織ったレクターのロングショットから始まり、はらわたを地面に落として息絶えるパッツィの処刑シーンまで、緊張感が衰えることもなく一気に見せてくれる。
 それ以降、舞台がアメリカに渡ると、いきなりレクターもラフな格好に着替えてしまって、遊園地なんかでうろうろした後背中から麻酔銃を撃たれてあっさり捕まっちゃったりして少々情けない。原作にどうせ手を加えるのなら、ここら辺ももう少しいじって欲しかったくらい。例の有名な晩餐のシーンは、おそらくは一番描きたかったところだろうし、クラリスが敢えてレクターに取り込まれることを拒否するくだりも「やっぱ自分でもこう変えちゃうだろうな」という意味では納得がいくものではあったけれど、もう少し丁寧に演出して欲しかった。ここでレクターは原作にはない思い切った行動に出るけど、なんとこれが先に出演したばかりの「タイタス」と同じことをするんだな。続けて観た者の立場からすると、ちょっと問題あり。
 クラリス役は前作のジョディ・フォスターが降板して、同年代のジュリアン・ムーアが頑張っているわけだが、ラストシーンを変えた時点でフォスターが降りる必要もなかったような気もする。ムーアもどちらかというと目鼻立ちのはっきりした方だけど、フォスターのさらに冷たさのある鋭い目の方が、この作品には合っていたのではないかな。ムーアの方が普通の意味でエレガントなので、逆に印象が薄く普通に見えてしまうのだ。
 レクターが飛行機の中にフォーションのランチを持ち込む場面、原作ではイタリアからアメリカへ移動する時のシーンなのだが、映画版では敢えてそのアメリカから逃亡するラストシーンにスコット流のアレンジを加えて使っている。これは物語の締めくくりとしては少々弱いような気もするけど、レクターのキャラクターとしてはむしろ映画版の方が納得する人も多いのでは? 全体を通して、物足りないと感じたシーンの多くは、原作通りやってしまったところにあったような気がする。もっともワインに関しては、原作にしつこく書かれる「バタール・モンラッシェ」「ペトリュス」「シャトー・ディケム」の三本はどこかで出して欲しかったんたげど。(メイスンがストローで飲んでるのがシャトー・ディケムだという話もあるが……)


【書籍】島村菜津「フィレンツェ連続殺人」新潮社
 トスカーナのフィレンツェで、1968年から1985年の17年間に8組の男女が惨殺されたという「イル・モストロ」事件。トマス・ハリスの「羊たちの沈黙」「ハンニバル」の2作に大きく影響を与えた、現実に起きた連続猟奇殺人事件である。「モストロ」とはイタリア語で文字どおり「怪物」のこと。
 事件の発端は1968年の夏。深夜二時に六歳の少年がたった一人である家を訪れた。
「開けて下さい。……僕、眠いんです。ママが死んじゃったんです」
 最初子供が寝ぼけているだけだと思った夫婦は、しかし憲兵隊員を呼び起こし、少年に道案内をさせ、車の中で惨殺されている少年の母親とその愛人を見つけることになる。当然一番の容疑者は少年の父親であり、そのまま投獄されるが……。
 第二の殺人は六年後の1974年9月。若い男女が車の中で銃殺され、女性の身体には96カ所の刺し傷が……。そのて第三の殺人はさらに六年後の1981年。一見全く無関係に見えた一連の殺人は、現場に残された薬莢の線状痕から、全て同じベレッタ22口径の銃を使って行われたことが判明する。この間、多くの容疑者が逮捕されては釈放され、中には似顔絵に似ていることを苦にして自殺する者まで現れる始末。最初の事件で唯一現場に居合わせながら殺害を免れた少年も、第三の殺人の時には青年となっていたのだが、「幼児期の体験が殺人衝動を招いた」のだと疑われ、失踪してしまったほどである。
 通常の快楽殺人に比べて異常に犯行の周期が長いこと、性的暴行の後が見られないこと、五〜六分の間にわずか三回刃を入れただけで被害者の局部を切り取っていること、犯行は夏の週末の月の出ない晩に限られていたことなどから、通常は勤めに出ている冷徹な知的犯罪者像が浮かび上がった。しかも最後の1984年の事件の時には、地区大会で活躍していた25才の青年が逃げるのを追いかけ、先回りしてその喉をナイフで切り裂いている。もし同一犯なら、最初の事件から二十年も経っているのにそれだけの強靭な体力を備えていたことになる。
 事件を担当したのはモニカという名の若く敏腕な女検事。しかし彼女は被害者の肉片の入った封筒を受け取ったことを機に捜査から退く。また、この事件の防犯ポスターは、羽根がそのまま目となる禍々しい蛾のイラストが使われたが、ここら辺が「羊たちの沈黙」を彷彿とさせる。そして、対策本部長ペルジーニは、殺人の前科を持つ農夫のパッチャーニを逮捕する。決め手となる物的証拠はないが、怪しげなスケッチブックの素描があった。そこには狭い部屋の中でサーベルを振りかざしている軍人姿の骸骨と、その横にとぐろを巻いている大蛇、そして足元には殺人事件と同じ数の十字架が描かれていた。このパッチャーニの公判には、トマス・ハリスも出席し、記者団に囲まれることになったが、その後も裁判は続き、無罪を訴え続けたパッチャーニは心臓病で獄中死。証拠捏造説まで飛び出しペルジーニは逆に非難を浴びることになる。ここら辺は「ハンニバル」のパッツィ捜査官にだぶらせてある。
 19世紀末にロンドンを騒がせた「切り裂きジャック」と並ぶ未解決の連続殺人。「切り裂きジャック」事件はホームズ物をはじめとするミステリーの隆盛を招いたし、今回の「モストロ事件」は「羊たちの沈黙」をはじめとするサイコスリラーの流行と重なっている。この本はフリーランスの女性の島村さんが、イタリアのジャーナリストのマリオ・スペッツィ氏の協力のもとに五年がかりで書き下ろしたものだが、ある意味、トマス・ハリスの作品以上にミステリアスな内容だった。

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