【映画】リドリー・スコット「ハンニバル」
「エイリアン」「ブレードランナー」「ブラックレイン」……80年代のリドリー・スコットは、繰り返し違った角度で死に至る「暴力」を描き続けていた。その描写には、人間の腹を破るエイリアンにしろ、人間の顔を潰すレプリカントにしろ、刀で相手の首を切り落とす松田優作にしろ、残酷だがどこかスタイリッシュで、今までまともに目にしたことのない様な「驚き」があった。死体が累積する中何とか最後まで生き残る主人公という構図は、特に「エイリアン」では顕著であるが、時としてその残虐な場面を描きたいからそのためにストーリーがある、とすら思えるほどだ。2000本以上ものCMの演出を手掛けただけに、非常に「絵になるシーン」を大事にする映画監督、という印象がある。
そのスコットが「羊たちの沈黙」の続編を撮るというので、ある意味これは見逃すわけにはいかないなと思ったのも確か。原作は、前にもコメントしてはいるのだが、ワインや音楽に関する蘊蓄は私も好きなので別に良いけど、それだけだとどうしても普通の教養人としての姿だけがクローズアップしてしまい、底知れぬ闇を抱えた「怪物」としての側面がおろそかになってしまっていないかと感じていたのだ。しかし、絵的にはパッツイ殺害のシーンや最後の晩餐のシーンなど、映像化が楽しみな所も多いので、映画としてはうまくまとまる可能性は高いと思われた。
しょっぱなから顔の潰れたゲーリー・オールドマン演じるメイスンが登場し、公園に散らばる鳩の群がレクターの顔と重なるオープニング。そしてそれに続くクラリスと麻薬売人達との銃撃戦。うーん、スコット先生、ハリウッド的に出だしから気合い入れてますね。個人的には、宇宙の闇のシーンを引っ張り緊張感を徐々に高めていった「エイリアン」や、都市の遠景とレプリカントの眼球とが重なる「ブレードランナー」のオープニングの様な「怖さ」の演出を期待したんだけど。これはまあ、原作通りではあるのですが。
一番の見どころはやはり中盤のフィレンツェ編。最新型の宇宙貨物船の中にギーガー的「腐食の美学」を導入し、馴染みのある筈の大阪の街をどこか異邦の地に見せてしまうあの独特の演出力はここでも冴えていて、古都フィレンツェのダークな部分、殺人が行われても不思議ではないような危なげな雰囲気がうまく描かれていて、思わず見とれてしまう。広場にたたずむコートを羽織ったレクターのロングショットから始まり、はらわたを地面に落として息絶えるパッツィの処刑シーンまで、緊張感が衰えることもなく一気に見せてくれる。
それ以降、舞台がアメリカに渡ると、いきなりレクターもラフな格好に着替えてしまって、遊園地なんかでうろうろした後背中から麻酔銃を撃たれてあっさり捕まっちゃったりして少々情けない。原作にどうせ手を加えるのなら、ここら辺ももう少しいじって欲しかったくらい。例の有名な晩餐のシーンは、おそらくは一番描きたかったところだろうし、クラリスが敢えてレクターに取り込まれることを拒否するくだりも「やっぱ自分でもこう変えちゃうだろうな」という意味では納得がいくものではあったけれど、もう少し丁寧に演出して欲しかった。ここでレクターは原作にはない思い切った行動に出るけど、なんとこれが先に出演したばかりの「タイタス」と同じことをするんだな。続けて観た者の立場からすると、ちょっと問題あり。
クラリス役は前作のジョディ・フォスターが降板して、同年代のジュリアン・ムーアが頑張っているわけだが、ラストシーンを変えた時点でフォスターが降りる必要もなかったような気もする。ムーアもどちらかというと目鼻立ちのはっきりした方だけど、フォスターのさらに冷たさのある鋭い目の方が、この作品には合っていたのではないかな。ムーアの方が普通の意味でエレガントなので、逆に印象が薄く普通に見えてしまうのだ。
レクターが飛行機の中にフォーションのランチを持ち込む場面、原作ではイタリアからアメリカへ移動する時のシーンなのだが、映画版では敢えてそのアメリカから逃亡するラストシーンにスコット流のアレンジを加えて使っている。これは物語の締めくくりとしては少々弱いような気もするけど、レクターのキャラクターとしてはむしろ映画版の方が納得する人も多いのでは? 全体を通して、物足りないと感じたシーンの多くは、原作通りやってしまったところにあったような気がする。もっともワインに関しては、原作にしつこく書かれる「バタール・モンラッシェ」「ペトリュス」「シャトー・ディケム」の三本はどこかで出して欲しかったんたげど。(メイスンがストローで飲んでるのがシャトー・ディケムだという話もあるが……)