読書する死体
本編は解決編・その2(終)です。
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已岬佳泰
解決編・その2(終)
翌日。署内の自販機前。
課長に報告を終え、捜査課を出てきたところを本多刑事は江永班長に捕まって、問答無用でここまで引きずられるようにして、連れてこられてしまった。昨日の事件の報告をしろと言うわけである。仙次警部の方が付き合いが長そうなんだから、そっちにきいてもらいたいと内心では思ったが、メガネの奥の目で見据えられるととってもそんなセリフは吐けそうな雰囲気ではない。
本多はあきらめて、昨日の経過を説明した。
「ふーん。本のひっくり返しって、返本のための仕分けのやり方だったんだ」
本多が支払ったミルクコーヒーの紙コップを片手に、江永ユリはそう言った。
「そうなんです。ご存じでしたか? 一般の書店で売られている本はそのほとんどが再販制度というシステムに乗っているもので、店頭に置いてあっても、書店は代金を全く支払っていません。本が売れてはじめてそこから販売マージンを差し引いて、取次という卸業者に支払うのです」
「本が売れなかったら返本もできる」
「はい。だいたい新刊本で仕入れから一ヶ月半、文庫やノベルズでは二ヶ月くらいの売れ具合で残った本を返本するかどうかは判断されるようですが、その長さは各書店の担当者の裁量だそうです。文香堂書店の場合は、文芸担当の山田が文芸書の仕入れと返本の一切を任されていました。彼は、毎日、書店の営業時間が終わったあとの午後九時以降、ひとりで返本するための仕分けをやっていたのです」
「それが本のひっくり返しってわけか」
「書棚から返本する本だけを抜き出して、前後をひっくり返して本棚に戻します。すると本の小口側が表に出てきます。実際に見てみるとよく分かるんですが、こうすると返本する本が書棚の中で一目瞭然なんです。それで、仕分けが済んだあと、これを販売取次の係員に回収させていたというわけです」
本多は昨夜見た文香堂書店二階の文芸書コーナーを思い出していた。白い間隙がまるで浮き上がるように書棚の中で目を引いていた。その前に立ちつくした男二人。ひとりは山田鉄二だった。もうひとりは販売取次の作業服を着ていたが、実際はそうではなかった。
「ところが、山田は返本する本を取次に返さず、万引きにあったと北原店長に報告しては、実はそれらをこっそりと古本屋に流していました」
「早い話が、業務上横領ね」
「ええ。でも、山田の行為には北原店長も気づいていたのです。二週間ほど前にいくつかの出版社がそういうウワサを聞きつけて、問い合わせてきたとか。新刊書が古本屋に出回るのがやけに早いとね。それで北原社長が調べてみると、どうやら信頼して任せていた山田の仕業らしいとわかった」
「でも北原店長は直接それをただそうとはしなかった」
「そこは北原店長も迷ったらしいです。彼はできれば山田に自発的にああした不正を止めて欲しかった。そうすれば横領については不問に付すするつもりだったといいます。だからすぐにそのことを指摘せず、まずは彼なら気づくであろうサイン、本のひっくり返しを昼間わざわざ再現してみせたのです。それで彼がサインに気づいて、つまり彼の不正を知っているものがいるということに思いを至らせて、その行為を止めてくれればよし。そうでなければ、次はやはり直接言おうと決めていたそうです」
「そっか。警告だったわけね。それで実際にひっくり返しをやったのは誰だったの?」
江永ユリはそう言うと、空になった紙コップを本多に向かって差し出した。もう一杯ということだろうか。本多はズボンのポケットを探って小銭を探した。
「出入りの出版社の人間だそうです。北原社長が事情を隠して頼んだのです。ただしひとつだけ条件をつけた。店内で知っている顔に会わないように。変な話ですが、出版社は書店に弱いとか。店長イコール経営者の北原に頼まれるとそうそうは断れないようです。でもそれで久慈早苗の言ったことに納得がゆきます。彼女はたしかこう言いましたよね。本のひっくり返しにやってきた男たちは、みな急ぎ足だった。しかも午後三時過ぎにやってきた。出入りをしている出版社の人間なら、仕入れ担当の山田とは顔見知りになっているでしょう。その山田は毎日その時刻には出版部の編集会議に出ます。だから、ひっくり返しがその時刻に行われ、男たちは知った顔にでくわすまいと急ぎ足だったわけです」
「文芸書をひっくり返しておけば、いずれ文芸担当の山田の耳に入るに違いないと考えたのね。そう言えば、久慈早苗からそのことを聞いた山田は、自分への抗議みたいだなと漏らしてたんだ。あれは案外本音だったのかな」
つぶやきながら江永班長は、本多から二杯目のコーヒーを受け取る。
「それともうひとつ、久慈早苗と植村智彦がひっくり返った本を見つけたときに異なった反応をした理由もわかりました。山田は返本の仕分けを文香堂の営業終了後、つまり午後九時以降にやっていました。それで、勤務時間が午後九時までの植村はそれを見たことがあって、だから昼間、本棚に見つけたひっくり返し本にさほど驚かなかったんです。ところが、勤務時間が午後七時までのパート社員、久慈早苗は当然、その作業を見たことがない。だから、昼間たまたま見つけてしまったひっくり返り本に違和感を抱いてしまった」
「でも、どうして山田はそんな横流しをやったの? それでお金もうけったって、古本屋じゃたかがしれてるでしょう」
「自分が任されて仕入れた本を、売れ残ったからと言って簡単に返本するということが山田にはできなかったようです。返本された本はそんほとんどが、処理工場に持ちこまれて断裁され、紙くずになってしまうんだそうですよ。紙くずにするくらいなら、安い値段でも古本屋に並べてもらった方がまだましだ。山田はそういう考えだったと言ってます。古本屋からの収入は書店の雑収入に計上して自分では使っていないようですね」
「要するに、自分の仕事に責任を感じていたということかな」
「そうとも言えますね」
自販機がぶーんと音を立てている。ここのコーヒーは最悪の味だと捜査課での評価は揺るぎないのだが、江永班長には気にならないらしい。あちあちと言いながらも、マズイというセリフはでてこない。
「それで結局、北原社長は目的を達成したから、ひっくり返しを七日間でうち切ったのかしら」
紙コップのコーヒーをもうひとくち飲む江永班長。
「いえ。止めたのは植村のせいです。七日目にひっくり返した男を追いかけて、植村は事情を聞き出したのです。そしてまっすぐ北原店長を訪ねた彼は、そこで真の理由を知った。それなら自分から山田に話しますと進言したそうです」
「え? それじゃあ、植村が山田を非常階段に呼びだしたわけ?」
「そのようです。植村は北原社長の気持ちを伝えるつもりで山田を呼びだした。ところが山田の方がそれを誤解したのです。山田はびっくりした。植村が呼び出したとき、返本の話だと言ったからです。山田のやっていることに気づいた植村が、彼を強請ろうとしているのではないかと疑ったのです。それでああいう仕掛けをした。山田としてみれば、植村は二十歳になったばかりの若僧で、ちょっと脅かせば考えを変えるだろうと思った」
「階段に本を置いたのは山田なんだ」
「そうです。まさかあんな悲惨な結果になるとは思わなかったと山田は話しながら、涙を流していました。非常階段のあそこで、ちゃんと植村の話を聞く余裕が山田にあったら、今回の事件は軽い笑い話で済んだことかもしれません」
「なんだかつらい話ね」
江永班長は手にした紙コップを見つめていた。中はもちろん空である。しばらくそのまま動かない江永班長。本多の気持ちも、その紙コップに似ていると思った。
(読書する死体・終わり)
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