電ミス「共通の謎」競作コンペ参加作品


読書する死体

本編は問題編・その3です。

INDEX ◆問題編・
◆解決編・
 

已岬佳泰

 問題編・その3

 久慈早苗が「それ」に気づいたのはまったくの偶然だったという。
 今からちょうど一週間前の月曜日、まだ夕方のラッシュアワー前のことだ。平積み台の新刊本を整え直していて、ふと文芸書コーナーを振り返ったときに、白っぽい隙間のようなものが目に付いた。すぐ近くの書棚、中央上から三段めくらいだった。最初は白い背表紙の本かと思ったが、近づいてみるとそれは本の小口側だった。つまり、ハードカバー本が一冊、前後逆に入れてあったのだ。客が入れ間違えたのだろうか。早苗は最初そう思った。そしてさほど深く考えもせずに、本を取り出し、ちゃんと背表紙を手前にして入れ直した。そしてその事はそれっきり忘れていたが、翌日の午後、またしても同じ場所に白い間隙を見つけて、さすがに変だなと思い始めた。
 ひっくり返されたのはハードカバー本が一冊だけだった。タイトルも月曜と火曜では異なっていた。月曜が「雪のない斑尾(佐伯紀彦著)」で、火曜が「墜落、あの日きみは(逆波隆史著)」である。どちらも文芸書だが、中味は紀行エッセイとノンフィクションノベルというように、まったく異なっている。早苗はそれらの本を入念に調べてみた。何かいたずらでもしてある可能性を感じたからだ。
 以前、早苗が別の書店に勤めていたとき、似たような経験をしていた。出版社が本の腰帯にクーポン券をつけて、それを十枚集めるとサイン本がもらえるというような読書キャンペーンをやったときのことだ。平積みの本からごっそり腰帯だけが外され、持ち去られたのだ。そしてご丁寧なことにそれらの本は平積み台から棚に移動されていたのみならず、すべてが上下逆さまに立てられていた。まるで「帯を取ったからね」という犯人からのメッセージでもあるかのように。
 しかし今回の場合はどちらの本にも、早苗が調べた限り異状はなかった。これならあえて店長に報告するまでもないか。早苗はそう判断したが、それが甘かったと次の日に知る。
 翌水曜日。午後三時四〇分と、早苗は腕時計を見たばかりだったので、その時刻まで正確に覚えていた。スーツを着たサラリーマン風の男がひとり、駅ビル側から急ぎ足でやってきた。ちょうどエアポケットに入ったみたいに店内には客が少なかった。といっても、漫画雑誌のところにはひまそうな若い男女が、いつものように数人で立ち読みしていたが、そういう連中には目もくれず、男はまっすぐに文芸書のコーナーに進んだ。もうあらかじめ買いたい本が決まっているという行動パターンだった。ただ、その急ぎ足ぶりに気を引かれて、早苗は無意識に男の行動を目で追いかけていた。男は文芸コーナーの最初の本棚を見上げると、すぐに手を伸ばし一冊の本を手にした。そして中を開こうともせずにそのまま本をひっくり返すと、もとの場所に戻したのである。回れ右をした男の背後、書架に白い間隙ができていた。あわてて視線をそらせた早苗の横を男の早足が通り過ぎてゆく。気のせいか、消毒薬のにおいがしたような気がして、視線を戻すともう男の姿はどこにもなかった。

「今度ばかりは私も気味悪くなりまして、その場から店長と文芸担当の山田さんに連絡をしたのです」
 その時の気分を思い出したのか、久慈早苗はほっこりとした頬に両手をあてがった。
 
 水曜日に男がひっくり返したハードカバー本は「気まぐれ遊び人(沢井次郎著)」だった。今度は三〇〇頁くらいの中間小説である。文芸担当の山田鉄二に念のために調べてもらったが、やはり今度も本に異状はなかった。久慈早苗が見ていた限りでも、男は本になにもしていなかったと思う。ただ単に前後をひっくり返しただけなのだ。だから本に異状がないのは当然といえばそうだった。奇妙なのはサラリーマン風の男の意味不明な行動だった。
 ところが事態は意外な展開を見せた。早苗が山田に説明するのを聞いていたレジ担当のバイト、植村智彦が「それなら自分も気づいていた」と言い出したのだ。
「ハードカバー本が一冊だけひっくり返されていたというのなら、その前の金曜日からありましたよ」
 植村はレジのヘルプと文庫本の補充を任されていた。いつもは店内が忙しくなる前の午後三時過ぎに、文庫本の補充は行う。しかし、真面目な植村は文庫本の補充のあと、必ず文芸コーナーの書棚も点検していたらしい。そして書棚で前後ひっくり返った本を見つけ、大して気にもせずに並べ直したというのだ。
 金曜、土曜、日曜と一冊ずつ。いずれも文芸コーナー一番手前の壁沿いの書棚だった。早苗が気づいたのと同じ書棚だった。そこに来てはじめて山田が唸った。
「いったいこれはどういうことなんだ。まるで僕に対する抗議みたいな気もするが」
 文芸担当の山田鉄二は、文香堂書店の正社員で、文芸書の仕入れや店内配置、ポップつけなどを担当している。要するに、文香堂に並ぶ文芸書のほとんどが山田の裁量で選ばれ、陳列されているわけだ。だから彼が「ひっくり返し」を自分への抗議ととったというのも頷ける理屈ではあった。
 植村が見つけたというひっくり返された本三冊は次のとおりだった。
 金曜日「哀しいユダ(志村勝樹著)」
 土曜日「暗喩としての騙し絵(島ケンジ著)」
 日曜日「死のジオラマ(識野秋雄著)」
 ただし、植村は誰がひっくり返したのかまでは知らなかったし、それらしい人間を目撃してもいなかった。

「出版社も違っていましたし、著者も本の中味も、それまでの六冊にまったく関連性は無いように思いました。山田さんも自分への抗議にしてはずいぶんと脈絡のない本の選び方だなあと首を傾げるし、店長も本にいたずらをされたわけでもないのだから気にしないで、ということになりました。それでもやっぱり翌日はちょっと緊張しました。私と植村君で気にして文芸コーナーを見張っているような感じで木曜日を迎えたのです」
 本多はレジに立って、文芸コーナーに目をやってみた。レジからは何の障害物もなく見通せるところに問題の書架はあった。念のためにと、本多は駅ビルとつながった出入り口のシャッター傍まで歩いてみる。そこからは新刊書の平積み台は一部見えるが、その右手奥の文芸コーナーまでは見通すことはできない。それを確認して、また仙次警部と久慈早苗が立つ文芸コーナーへと戻った。早苗の話は続く。

 木曜日。
 久慈早苗の気持ちは少し重かった。週末には書店の一大イベントである小説作家のサイン会が予定されていた。売り出し中のミステリ作家、榎木凛々が、東京からわざわざここまでやってくるというのである。サイン会のほうは榎木凛々の新刊「凶器消失!」を購入予約してくれた客に優先的に整理券を渡して、それがもうほとんど予定数さばけていた。だから、これから新刊を買ってくれても整理券を渡せないおそれがあったのだ。おそらく客から文句を言われるだろう。それには平身低頭、陳謝するしかないと店長からは指示を受けている。残った整理券は数枚。「榎木凛々先生サイン会の整理券は配布終了しました」という店内告知もすでに用意してあった。しかし、「凶器消失!」の方は平積み台の最前列に積み上がっている。「榎木凛々先生、来店予定」というポップ付きだ。今日はかなり頭を下げることになりそうだな。覚悟を決めるしかない。
 それからもうひとつ。
 例のひっくり返し事件の方ももちろん気になっていた。午後三時過ぎまでは何も無いだろうという予感はあったが、それでもことあるごとに文芸コーナーへと目がいってしまうのは止められない。そしてそんな自分たちに気づいて、早苗と植村は顔を見合わせては苦笑していた。気にするなと言っていた店長も時々それとなく店内を見回りに来るし、日頃は一階の出版部事務室にいる山田までもが、頻繁に顔を見せては早苗に様子を聞いてきた。早苗が頭を振るとそれで安堵したような顔になったから、やはりかなり気がかりなのだろう。
 午後三時過ぎ。とうとう切れてしまった整理券について、早苗が口をとがらす学生風の客に頭を下げていると、植村が脇から早苗の肘を小突いてきた。彼もたまたま買い上げのレジを打っている最中らしかったが、文芸コーナーの方を目で示している。早苗は不満そうな学生からちらっと視線をずらして、文芸コーナーを見やった。その瞬間に背筋を悪寒が走った気がした。背広姿の男が問題の書架の前に立っているのが見えたからだ。男は手を伸ばして本を取り出そうとしているところだった。
「ねえ、本を買ったら整理券くれるって書いてあるじゃないか」
 不満げな客の声にあわてて視線を戻す。口をとがらせた若い男はなかなか引き下がってくれそうにもない。どうしよう。早苗はその時になってはじめて気づいた。問題のひっくり返しがまた起きたとして、それで具体的にどういう対処をするかを誰も決めていなかったのだ。本をひっくり返すという男の行為はそれだけでは罪に問うことはできそうにもない。強いて言えば営業妨害と言えないこともないかも、と思うがそれだけではちょっと弱い。
 そうこうしている内に問題の男がそそくさとレジの前を歩きすぎた。
「すみません。レジお願いしまーす」
 植村がそう言うと、客を待たせたままレジから飛び出した。急ぎ足の男はすでに駅ビルへのブリッジを歩いている。植村がその後を追っていった。
「申し訳ございません」
 早苗はもう一度頭を下げるとやっと学生はレジ前を離れてくれた。「整理券配布終了」というポップを平積み台に置いてもらわなくっちゃ。そう思いながら、植村が放り出していった客のレジを打つ。客の列が片づき、早苗が一息ついても、植村はなかなか戻って来なかった。

(問題編・その3終わり) 
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