読書する死体
本編は問題編・その4です。
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已岬佳泰
問題編・その4
「結局、植村君が戻ってきたのは午後四時過ぎでした。どうだったと私がたずねると黙って頭を振ります。ずっと電車に乗るところまで追いかけたのだけど、途中で見失ったと言うのです。でも、それにしては戻ってくるまでに時間がかかっているし、きっと植村君は何かを知ったのじゃないかと思うのです。でも私には何も言いませんでした。店長と山田さんもあとから来てたずねたのですが、植村君はわからないと言うだけで。でも、もうひとつ、彼が何かを知ったに違いないと確信する理由があるのです」
そう言うと、久慈早苗はまっすぐに本多を見てから続けた。
「本のひっくり返しがその日を最後に終わったのです。翌金曜日から今日まで、それは起きていないのです」
「ふーむ」
仙次警部と本多は息を吐き出しながら、唸った。たしかに胡散臭い話ではある。ハードカバー本を毎日一冊ずつ、七日間ひっくり返す男たち。そのひっくり返しはいったい何を意味するのか。七日目にひっくり返した男を追いかけた植村智彦。彼だけが何らかの真相を知ったというのなら、なぜ彼は書店の人たちにそれを話そうとしないのか。そしてなによりも重大なのは、彼が知り得たなにかが、彼を死に追いやった原因なのか。いやそもそも、本をひっくり返すことに、どんな真相があるというのだろう。
唸り続ける仙次警部のとなりで、本多は首を捻るしかなかった。
「それで、木曜日にひっくり返された本は何というやつだったんですか?」
「あ、それを言い忘れていました。すみません。篠部みゆきのハードカバー本で"消えた蒙古斑"というタイトルでした。ウチでもわりと売れているサスペンス小説です」
本多は一応、タイトルを記録した。ひっくり返すという行為の理由は不明だが、ひっくり返された複数の本に何か意味がある可能性は否定できないからだ。
「本をひっくり返しに来た男ですが、水曜、木曜と同じ人物でしたか?」
本多の質問に久慈早苗は首を振った。
「顔をよく見たわけではありませんから、百パーセントの確信はないのですが、背格好が違っていたと思います。おそらく別人だろうと」
「そうですか」
久慈早苗と植村智彦はそれ以降、週末のサイン会の準備に追われたらしく、本のひっくり返りについては話をしていないと言う。そして月曜日。午後三時過ぎに植村が非常階段から落ちて死んだ……。
「なんだか変な風になってきたなあ。本屋に本をひっくり返しに来るなんて、まるでアメリカの古典ミステリじゃないか」
仙次警部がそう言ったので、本多は飛び上がった。アメリカの古典というと、学生時代に読んだポー、ヴァン・ダインあたりだろうか。ただ、似たような事件といっても本多にはとっさに思い浮かばなかった。探偵小説嫌いを自称する仙次警部が、これほど古典ミステリに明るいとは。
「本のひっくり返しなんて、ありましたっけ?」
思わずたずねた本多に、仙次警部がつまらなさそうに応えた。
「本屋に逃げ込んだ切手ドロボウが、書棚のハードカバー本に盗んだ希少切手を隠すって話だよ。後で取り返そうとして忍び込んで、次々に本をひっくりかえすが、実はもうその本は売れてしまっていて本屋にはないのだがな」
「あのお、主任、それってたしかに某古典ミステリみたいですけど、本はひっくり返さなかったと思うんですが」
仙次警部が鼻を鳴らした。そういう些細なことには構うなというサインである。それにしても、ひっくり返した男たちが、その本に挟まれたなにかを探していたという仙次警部の推理は外れていると本多は思う。口には出さないけれどだ。さきほど、久慈早苗が言ったではないか。本を取りだした男は中味も見ようとせずに、前後をひっくりかえして本棚に戻したと。
文香堂書店の店長、北原康太は、白い髪の混じった頭に鼻の下にヒゲを蓄えた紳士だった。三階にある十坪ほどの部屋には店長室という表札がかかっていたが、差し出された名刺の肩書きは「代表取締役」とある。つまり店長イコール文香堂書店の経営者ということなのだ。ただ、北原は肩書きのわりには、ポロシャツに白のデニムパンツというラフな格好をしていた。勧められて簡素な応接セットに腰を下ろすと、さっそく本多は植村のことをたずねた。
「植村君はこのビルの新装オープンに合わせて採用したアルバイトです。以前は郊外の古本屋に勤めていたらしいのですが、本の流通に興味があるということで、こっちに来たようです。仕事は二階でのレジ打ちと文庫本の補充作業でした。勤務時間は正午から午後九時。店は午前十時開店の午後九時終了ですから、彼にはコアタイムを働いてもらってました。ええ、遅刻もなくてまじめな働きぶりでしたよ」
「誰からか恨みを買うというようなことはありませんでしたか? 店の中でのトラブルとか」
本多の問いに北原の眉がつり上がった。
「え? どういうことですか? 植村君は事故じゃないのですか?」
「それは今、こっちで調べているところです。事故じゃない可能性も出てきたのでね。どうなんですか?」
仙次警部がそう言うと、北原はちょっと考える素振りを見せた。しかし、返ってきた答えはさきほどの久慈早苗と同じだった。
「まだ二週間くらいしかこっちでは働いていないのですが、特にトラブルめいた話はなかったですよ。明るい好青年だと思っていましたけどねえ」
北原は「本のひっくり返し」のことには自分からは触れてこなかった。そこで本多がそれを指摘すると、頭をかきながら認めた。
「いろんなお客様がいますから、そういうこともあるのかなと思って。二階の久慈さんたちが騒いでいるのは承知しておりましたが。私はさほど気にはしておりませんでした。本をひっくり返すって行為そのものがそれほど珍しいことではありませんからね」
「は?」
思わず本多は北原の言葉尻に反応していた。本をひっくり返すというのが珍しくないと彼は言ったのだ。
「いや、その。私が若い頃のことで恐縮なんですが」
そう言うと北原はまた頭をかいた。
「町の本屋で、本をひっくり返すのを目撃したことがあったんです。月に一回なんですが、子どもが次々と店に来ては本をひっくり返してゆくんですよ。その時は奇妙なことをするなあと思っていたんですが、あとで店主の説明を聞いて納得しました」
「どういうことだったんですか?」と本多。
「子どもたちは自分の欲しい本をひっくり返していたんです。そうしておくと、店主はその本を予約と同じ扱いにしてくれて、子どもたちが親から小遣いをもらってから来ても、ちゃんとその状態に置いてくれてました。月一回の本の発売日のことです。子どもたちに人気のあった月刊誌でしたから、またたくまに店にはひっくり返った本の山となってましたよ」
「ああ、そういうことですか」
本多はがっかりした。それでは今度のひっくり返しとは明らかに事情が違う。ひっくり返った本は店員の手で直されたのだ。その後、その本が売れたとも聞いていない。
「ウチの方の本のひっくり返しですが、どうやら先週で止まったようで、ほっとしてます。でも警察ではそんなことを問題にしているのですか?」
聞き返されて、仙次警部がむっと来たようだ。
「植村さんは他殺の可能性があるんです。そしてその原因はどうやら、本のひっくり返しの理由を彼が知っていたからではないかと思われます」
仙次警部の強い口調に北原店長は目を白黒させた。
「そ、そんなバカな。それはあり得ない」
「やけに力強く断定してくれますね。というと、北原さんはその本の一件、事情をご存じなのかな」
仙次警部のどう猛な顔に不気味な笑みが浮かぶ。獲物を見つけた猛禽類のようだ。北原は必死で否定した。
「いや、そういうわけじゃないですけど。まさかそんな、彼が殺されただなんて……」
(問題編・その4終わり) 続き
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