「ワインの歴史は英雄達の欲望の系譜」Part-2.フランスワイン
〜ワインの歴史をおもしろおかしく解説する休日講座! いよいよ「おフランス」のワインへ!
●フランスにはローヌ、ロワール、シャンパーニュ、プロヴァンスと多くの生産地がありますが、何よりもフランスを代表するのがブルゴーニュとボルドーです。
ブルゴーニュは別名バーガンディ、なで肩の瓶で赤は明るい色のピノ・ノワール、白はシャルドネを中心にほぼ単一品種で作られます。それに対し、ボルドーは別名クラレット、いかり肩の瓶で赤は濃い色のカベルネ・ソーウィニヨン、白はソーヴィニヨン・ブランやセミヨンを使い、ブレンドして作られます。ボルドーは一つの畑を一人が所有するので、シャトー・マルゴーは一種類しかありませんが、ブルゴーニュは一つの畑が分割されているので、同じモンラッシェでも十数種類の違うデザインのラベルが並ぶことになり、ややこしいです。赤を飲んでみると一般的にボルドーは重くて渋味が強く力強い印象を受けますが、ブルゴーニュは軽やかで香りが華やか、繊細な印象を受けます。にもかかわらず、ブルゴーニュは王、男性的なワイン、一方ボルドーは女王、女性的なワインと形容され続けてきました。フランス人の多くはフランスワインの王道はブルゴーニュにあり、と考えているようで、それは多分に歴史的な背景が影響しているのではないかと。
1152年 ヘンリー二世とエレノアの結婚
1154年 ヘンリー二世王位相続
ボルドーは以降300年英国領に
1337〜1453年 百年戦争
1395年 ブルゴーニュ公、ガメ種禁止
1789年 フランス革命〜貴族領地没収
1804年 ナポレオン法典〜土地細分化
1855年 ナポレオン三世、ボルドー格付
さて、14世紀にはいるとイギリスの気候が変化し雨が多くなり気温が低くなり、葡萄栽培が衰退します。百年戦争は、一つには葡萄栽培衰退に直面したイギリスのボルドーに対する強い執着が原因だったと言われています。当時のフランスはシャルル六世の死後北のブルゴーニュ侯と南のオルレアン侯(アルマニャック党)が対立して、ブルゴーニュ侯はむしろ英国と結んでパリを押さえていた状態。実際、ジャンヌ・ダルクが廃嫡されていたシャルル七世をかつぎ上げなければ、ボルドーとブルゴーニュの対立どころか、プランタジネット家が強大な英仏連合国を作っていたかも……という話もあります。何はともあれパリをも押さえていたブルゴーニュ侯フィリップはその戦争の最中、「えぐみがきつくぞっとする」と理由で、ピノ・ノワールの三倍の収量が得られるガメ種の根絶を命じます。ガメ種はあのボジョレーのメイン品種で、本当に根絶やしにされていたら今日のボジョレ・ヌーボーも無かったわけですが、とにかく一族郎党で争っていてもワインの品質だけは無視できない、というわけでブルゴーニュは文字どおりフランス一の品質と名声を保っていたわけです。
しかしフランス革命と同時に王侯貴族の葡萄畑は没収、しかもナポレオン法典によって、みんな仲良く平等にと長子相続は廃止されますますブルゴーニュの土地はバラバラになっていきました。さらに時代は下り、ナポレオン三世の時代、パリ万博に合わせてボルドーの格付けが行われます。
シャトー ラフィット ロッチルド |
シャトー マルゴー |
シャトー ラトゥール |
シャトー オー ブリオン |
シャトー ムートン ロッチルド | |
オーナー | パリ系 ロスチャイルド |
フィアット/アリエリ家 メンツェロプーロス家 |
プランタン グループ |
ディロン家 | ロンドン系 ロスチャイルド |
関連有名人 | ポンパドール夫人 | ヘミングウェイ | チャップリン | ジェファーソン | ゲーリング |
筆頭のラフィットと末席のムートンには同じくロッチルドの名が。これはドイツ語ではロートシルト、英語ではロスチャイルドと読まれます。
1760年代 初代ロスチャイルド、金融業へ
1787年 トマス・ジェファーソンの格付
1815年 ロートンの格付
1853年 ナサニエル男爵、ムートン購入
1855年 ナポレオン三世の格付
1868年 ジェームズ男爵、ラフィット購入
1922年 フィリップ男爵、ムートン相続
1924年 ムートンのシャトー元詰め開始
1973年 ムートン、第一級に昇格
ロンドンの分家のナサニエル男爵がムートンを買ったのは1853年、その後の1855年の格付けでも二級どまりだったのに、その後一級を獲得していたラフィットをパリの分家が買ったからさあ大変、ロンドン分家を引き継いだフィリップは樽売りを瓶売りに切り替えて売り込みに本腰を入れ始め、積極的に格上げ工作を展開、紆余曲折を経てついに1973年、一級昇格を果たします。現在に至るまで格付け変更はこの一品のみです。
1889年 パリ博覧会にて金賞
1945年 マダム・ルパの所有に
1961年 ムエックス家所有
1987年 ヘリコプター作戦
1992年 プラスチックシート作戦
パリ万博で金賞を取った「ペトリュス」はめきめきと頭角を現し、マダム・ルパがどのシャトーよりも高くでないと売らないわよ、と宣言したから、なんですが、今では同じポムロールの新ブランド「ル・パン」にお株を奪われているようです。何はともあれ、カベルネ主体のメドック五大シャトーに対し、ポムロールの主要品種はメルロー。しかも粘土質土壌。通常葡萄は水はけの良い土地を好むのですが、ここの土壌は水を吸って膨張するので適度に根が締め付けられて最高の濃縮度のある葡萄が実る仕組み。それでも収穫期の雨は大敵で、87年にはヘリコプターで葡萄を乾燥させ、92年にはプラスチックシートで雨水の浸透を防いだといいます。
・世界三大貴腐ワインのはじまり
1650年 トカイ・エッセンシァ
1775年 シュロス・ヨハニスベルク
1847年 シャトー・ディケム
1332年 シトー派修道士らが開く
1760年 コンティ王子とポンパドゥール夫人の争奪戦→コンティ王子獲得
1867年 DRCの発祥
1940年代 法人化により分割を回避
1945年 最後の接木されていない樹が引き抜かれ、1952年まで製造中止
法人化により畑の分割を阻止したため、他のブルゴーニュと異なりラベルは一種類のみ。1332年にシトー派修道士が開墾して以来名声を誇るこの畑は、1760年にコンティ王子とポンパドゥール夫人が争い、コンティが獲得、その全生産量を市場から引き上げ自分の家だけのものにしてしまったといいます。さて、このロマネ・コンティですが、1945年から1952年までまったく製造を中止していた時期があります。その原因となったのが、一時はヨーロッパのワイン産業を壊滅状態に追いやった「フィロキセラ」であります。
単性生殖で一匹が600個の卵を産み、幼虫は根に瘤を作って成長し、羽を生やした成虫がまた他の土地へと移っていく。あらゆる薬が試されたが効果はなく、結局耐性のある樹に接ぎ木することによってしか解決できませんでした。異なる種に接ぎ木することによって品質が変わることを恐れたロマネ・コンティは最後まで頑張ったものの、ついに1945年、最後の接ぎ木されていない古株が引き抜かれたのでした。
このフィロキセラは一体どこから突然湧いて出たのか……続きは「Part-3」で!